ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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ありがとう


時間は 確実に進んでいるのですね。
もう、年末です。新しい年が来るだなんて。

こんな当たり前のことも 考えられなくなっていました。


自分だけ取り残されてしまったような錯覚に陥ったり

あの日のまま 止まっている自分がどこかにあったり


雪が舞っているのを見ると 胸騒ぎがしたり


時間がたつにつれて 実感すること、わかること、見えてくることがたくさんありました。

まだ 半分もわかってないかもしれませんが

今までにない 壮絶な体験をした年でした。



いろいろなこと全てが 初めて経験することばかりでした。

悲しく、辛く 悔しい思いもしたけれど

失ったことばかりではなく、得るものも大きかったのかもしれません。

全国各地、世界中の方々の 「人」の暖かい支援に支えられて

いま、こうして生きている。

子供達はえんぴつやノートも 絵の具、習字、様々な勉強道具を全部失ったけど
全国の方々から 支援を受け 今は 当たり前に授業を受けられています。

学校の給食の支援をしてくださった 業者さんもいらっしゃいました。
パンと牛乳だけだった簡易給食は 少しずつおかずも増えて 今は元通りではないけれど
十分に提供を受けられています。

今まで関わりのなかった市町村の方々が とても身近な存在になりました。

とにかくここに書ききれないほどの 支援を受けました。

物品だけではなく 心に響く応援も沢山うけました。

ほんとうに ほんとうに

ありがとうございました。

この場で お礼を言っても届くかわからないけれど
自衛隊の方を始め
全国の方々に感謝の気持ちでいっぱいです。


ここに遊びにきて つたない文章を読んでくれた皆さんにも
本当に感謝しています。

ここでの交流は、本当に心の支えになりました。
心配してくださったみなさん、本当にありがとうございました。

この場所は わたしにとって 秘密基地みたいなもので
好きなことや本音をこそこそと書いて 自分なりに気持ちを整理できたり
みなさんとの交流がとても刺激になります。

マイペースな更新だけれど 
これからも 遊びにきてもらえたら 嬉しいです。



今年の最後くらいは 悲しいことは忘れて この「感謝」のキモチだけで終わらせたい。

来年も その先も まだまだ厳しい現実は待ち受けているけれど
心穏やかに 家族で「あたりまえ」に日常を過ごすことに
努めていきたいと思っています。



今年一年間、本当にありがとうございました。

また 来年もよろしくおねがい致します。

皆様にとっても 良い年を迎えられますように・・・


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ジャンル : 日記
テーマ : 日記

[ 2011/12/31 01:23 ] 日記 | TB(0) | CM(0)

3月12日の記憶-その2。

家で、おじいちゃん おばあちゃんの無事を確認してホッとした私たち。
二人は 学校の体育館に行くよりは まだ 自宅のほうがマシだろうということで
私たちだけ 学校に戻った。

また 来た道をジャブジャブと歩かなければならない。
やたら、天気は良かったのは覚えている。でも、水は本当に冷たくて 寒かったけど
夜 車でもっと寒くなることを思うと、とにかく「子供達にあの寒い思いをもうさせたくない」
という思いだけで 荷物を頑張って持っていった。

毛布1枚とショール1枚、私のズボン、さーねえちゃんの学校のジャージ上下、あーねえちゃんのカーディガン
おばあちゃんのコート、靴下・・・こんな感じだったと思う。

来た時には気がつかなかったけど 家の近くにコンビニのゴミ箱や看板が流れてきていた。
その近くを、二人組みの白い制服を着た警察官が歩いているのを見た。


また、あそこを通る。

やぱっり 見間違いではなく亡き骸が浮いていた。
恐いとか その時は全く思わず、きっと あの警官の方たちが来てくれると思って安堵した。



ようやく やっとの思いで水没地帯を脱出して また大通りを歩き出す。
お父さんが、お尻まで濡れてしまったので、まずいことになった。

(↓ここは まだ 浅い所だった)
P1000284.jpg

このままでは風邪を引いてしまう。
かといって また 家に戻っても自分たちの着替えは無い。ジッチに借りるという頭も働かなかったし、
とにかく かなりの消耗で「戻る」のは考えられなかった。
私はギリギリ パンツまでは濡れなかったので ズボンは持ってきたのでなんとかなる。

坂を登ってしまえば 住宅地がある。
そこで 何軒かあたってみることにした。
「すみませんが、男性用のパンツと靴下を貸していただけませんか?」と3軒まわり
何枚か 下着と靴下を借りた。 
この際、サイズも関係なくありがたくお借りした。
三軒のうち2軒はおばあさんが親切に対応してくださった。
残念ながら男っけが無い御宅だったらしく、でも 二人とも一生懸命タンスを探してくださった。
合計トランクス2枚とブリーフ1枚、靴下2枚を借りることができた。
後に落ち着いてからお礼に伺った時にわかったが、上京した息子さんのものだったらしい。
もう一軒はおじいさんが対応してくださって この方も快く靴下を2枚貸してくださった。

本当に、ありがたかった。
全く知らない 赤の他人の家に行って まさか 下着を借りることになるなんて
夢にも思わなかったけど 
いきなり 下半分ずぶ濡れで家にこられて、「パンツ貸してくれ」と言われたほうも
びっくりしただろう。
でも、本当に こころよく対応してくださって その親切のお陰で
お父さんは風邪をひかずに済んだ。

どのくらい時間がかかったのだろうか。車に着いたら子供達は、飽きて「やっと来たァ」という様子だった。
家まで津波が来ていること、おじいちゃんたちは2階で無事だったこと、などを話して
私は車の座席にビニール袋を敷いて 座りズボンを取り替えた。
お父さんは さーねえちゃんのジャージとお借りした下着に着替えた。
靴は、さーねえちゃんが校舎から自分の上靴を持って来てくれた。
お父さんも、サンダルを借りる事かできた。
二人してガクガク震えていたので子供たちは驚いていたが、ただ「津波がきている」と聞いても
何もピンと来なかったと思う。
そりゃ、くるわけがない。

そのあとの日中は時間が経つのが長く 遅く 感じた。
ただ 車に居ても どうしようもない。

外はヘリコプターの音がすごかった。自衛隊、ドクターヘリ、取材ヘリもなのか?
隣りの中学校が避難所本部になったらしく、校庭がヘリポートになり、何度も下降、上昇を繰り返していた。
防災無線では民間業者に街の車の撤去作業に協力を呼びかけていたり
タクシー運転手さんなどはどこどこに集まってくれだとか、動ける食品提供できる会社は避難所に持って行ってくれだとか・・・何か動き始めている感じだった。
これが、2日目だったか、3日目だったか記憶が定かではない。

私たちは、お父さんの両親の事も心配だった。
とりあえず 義父は高台に避難したはずだ。義弟に会った時にそんなことを言っていたはず。
お父さんは、義父が居そうな「市民体育館」に行って見ることにした。

中学校から近いので 歩いて様子を見に行ったが 間もなくして戻ってきた。
どうしたんだろうと思ったら
「市民体育館は遺体安置所になっていて もう 避難所じゃないんだって」
と言った。

その言葉は ものすごく 衝撃だった。

義母は海岸沿いで牡蠣の養殖をしている実家で働いている。
その日、仕事かどうかわからなかったので 余計に心配だった。
実家の方に行ってみようか?と話したけど 内陸側だし、義母の実家は高台にあるから
あまり心配せず まず今日は様子をみようということになった。
家に戻っただけで ヘトヘトだったのと、子供達をまたさらに長い時間置いていくのも心配だった。
日が暮れてしまうのも こわかった。



時々 トイレがてら校舎に行ってみた。
もう、校舎の各教室も人でごった返している。
ガラスが割れている教室もあるが、そこにも人はいた。
ますます、私たちの様に車がある人は 車にいたほうがいいのかと思わされる。

「学校」が「避難所」になってから 体育館近くの昇降口にはホワイトボードが2~3台、紙とマジックペン、セロハンテープが置かれていた。
そこには数々の安否を心配する書き込みや 自分はここにいると知らせる書き込み、様々な紙が貼られていた。
私も近所の託児所のことを書いておこうと思い、大家さんの家に避難していたことを情報の一つとして書いて貼った。

体育館の方へ行ってみる。
すると、地元の新聞社が 模造紙に情報を書いた「壁新聞」をひっさげて 体育館脇に張り出しているところだった。

初めて 活字で見る情報。

全てが聞いたことのある、よく知っている土地や建物の名前ばかりで
生々しく、でも現実ではないような話ばかり。
「日本最大級の地震、津波」「津波で各地水没、犠牲者多数」
「南浜町、門脇町 倒壊 流出」「門脇小 全焼」「石巻市役所7階崩落」「天王橋が落下」「航空自衛隊松島基地 滑走路水没」・・・・

で、大きく赤文字でこう書かれていた。

「正確な情報で行動を!」本当に、そう思った。壁新聞に向かって うんうん、と頷いた。

なかなか入って来ない情報。
何がどうなっているのか わからない。
いま、なにがおきているの??言いようもない不安。
壁新聞を見て
それを、「ああ、大きな地震があったんだ」と改めて思った瞬間だった。

(この、地元の新聞社「石巻日日(いしのまきひび)新聞社」は 高台のふもとにあり、会社が被災しながらも
記者たちがなんとか情報を足で集め、「わかることだけでいい、手書きでいこうや」と壁新聞を作り
避難所などに貼ってくれていた。この壁新聞に私たちはどれだけ救われただろう・・・
後にこの壁新聞はアメリカで展示されたみたいです。)


「市役所では 炊き出しの協力も市民に呼びかけています」とも書いてあった。

そういえば 朝も、昼も もう学校側からの配給はなかった。

夕方近くになって 体育館に行くと
街のとうふ屋さんが豆腐と油揚げを支給してくれていた。でも圧倒的に足りない数。

それをどのようにして食べるか、どのように配るか、話し合われていた。
しかも、本部ではなく 後ろの方で市民の人たち、高校生やらで話し合っていた。
私もすぐに「これ、持ってきてくれたのですがどうしたらいいと思います?」と声をかけられた。
(校舎に行くと、なぜだか、やたらと声をかけられた。
たぶん学校の保護者というだけでも、他の方々から見れば何かしら知ってる人と、思われていたようだ)
私にはどうにもできなかったけど、後に本部の人が加わったのか そのまま配られていた。
調理できない状態で油揚げをそのまま食べる人は少なかった。
お年寄り、小さいお子さんの方を優先に豆腐を配っていた。
寒い中、つめたーい豆腐は 体を冷えさせるのではないかと思った。
でも 食べないよりマシ。

ただ、体育館にいる人だけでも全く足りないのだ。
校舎はもちろん 校庭の車にいる人たちにもまわってくるはずは無い。



その日の夜 私たちは 朝コンビニで仕入れてきたスナック菓子をひと袋を
5人で分けて食べた。

バーベキュー味のポップコーンだった。
その味は 今だに忘れられない。
本当に 美味しかった・・・というのはちがうかな。
なんだか 染みる味だった。

食べ終わってしばらくすると

るーくんが 堰を切ったかのように急に泣き出した。

「早く家に帰りたい~・・・いつまでこうやって車に居なきゃないのぉー??」

大粒の涙をボロボロこぼし、恥ずかしさも何もかもかなぐり捨てて
おんおんと泣いていた。

私は「我慢しないと、しょうがないんだよ」としか言う言葉がみつからなかった。


足を伸ばして寝かせてあげたい。
お腹いっぱいご飯を食べさせてあげたい。

でも
我慢するしかなかった。


ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/30 04:11 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)

3.11~自宅から見た写真

ここでは 3月11日、津波が来たときに
家に残った おじいちゃん、おばあちゃんの話を書きたいと思います。

私がるーくんを迎えに出たあと 二人は一階で片付けをしたり
電池集めをしたり、茶の間や台所をウロウロしていたそう。

そうしているうちに 窓のサッシレール部分からじゅわじゅわじゅわっと水が入ってきたらしく!
それを見たおじいちゃんは
「おばあちゃん、津波きた!早く二階に行けー!」と叫んだそう。
おばあちゃんは あわてて廊下に出ると 廊下にも すーっと水が入ってきていたそう。
靴下は濡れるも、そのまま 二階に上がる。

おじいちゃんは バタバタと長靴を履き?持ち?(さだかでない)、懐中電灯、電池、
カセットコンロなどを持っていると
畳がゴボゴボゴボッ!!!と浮き上がってきたのだそう。

びっくりしてあわてて二階へ上がる。

そして このまま二人はしばらくの間 孤立した家の2階で過ごすことになる。

ジッチが 外の様子など 写真に撮っていた。
(デジカメのデータが消されてしまっていたので 現像した写真を撮影したものなので
写り悪いです)


どんどん 押し寄せる津波
P1000262.jpg

家の近所の事務所の様子 すでに車が・・・
P1000263.jpg

ベランダから物置、車庫を眺める。道路向かいの御宅の白い塀がギリギリ
P1000271.jpg




雪が止んだ。気づくとこんなにも水位が上昇。白い塀は見えなくなった
不自然に車がどこからか流れて来ている。
P1000268.jpg

玄関側。ジッチの車水没。白い天井が少しみえます。
灯油入れの物置も浮いてる
P1000273.jpg


夜は二人で、懐中電灯を照らし、物置の波線の模様の「上から何段目」まで上がった!、下がった!と
一晩中チェックしていたそう。
P1000272.jpg


廊下、階段下の方に 買い置きの缶ビールがぷかぷか浮いてきたのだそう。
それを拾って飲んだり、
買ったばかりで封を切ってなかった米も、たまたま階段下の押入れに入れてあったので
すぐに拾い上げたらしい。
泥水はきっと入っていたのだろうが(苦)

階段から一階を見下ろす 真っ黒い水
ものが散乱。灯油はマンタンでした。
P1000274.jpg

玄関にあった下駄箱が浮き、倒れる。玄関のドアを押し開ける形になってしまった。
これが邪魔になり、翌日私たちは 部屋の窓から家に侵入した。 
P1000269.jpg



それでも、その晩は飴一つくらいしか口にしなかったそう。
「なにか食べる」そんな発想はなかったと。

それよりも、私が出ていって それっきり帰って来ない。孫たちも、お父さんも。
とても心配しただろうと思っていた。

そうしたら よくわからないミラクルがまた起こっていたのです。

私の送った送信エラーのメールが、きちんと受信はできなかったらしいのですが
おばあちゃんの携帯に文字列が出たのだそう!!

そんなことってありえるのか?!
びっくりしたけど、

「○○子からのメールが、一瞬、ここの画面に映ってながれたの!みんなで中学校にいるって。だから大丈夫だと思った!」と興奮状態でいうのです。
でも、言ってることは合ってるから、きっとそうだったのだろう。。。
でも、お父さんは職場が海の前だし、まさか小学校で合流しているとは知らないので
とにかく お父さんの心配を二人でしていたそう。
「こんなところまで こんなに水が来たから ○○ちゃん(お父さん)はヤバイと思ったよ~」
と、ジッチ。おいおい、人のダンナを勝手に殺さんでくれー。

いやいや。なんにせよ、メールが一瞬届いていて?よかった。
とっても不思議なことなんだけど
ありがとう神様。ってしか言いようがない。

おばあちゃんは(いや、ジッチも)ただでさえ パニックだったと思う。

そして その晩の余震たるや ものすごかったから 逃げ場もないし
本当に怖かったと思う。
私や孫の安否をもし知らなかったら もっとパニくったと思う。
そして
ある意味、二人の部屋が2階でよかった。
着替えも 布団も 無事だったから。
普段、ジッチは部屋でラジオを聞いていたから 部屋にそのままあったし、
二人とも普段は携帯電話だって身に付けて持ち歩かない。自室だったから 手にしていたのだ。

おばあちゃんの部屋にゴミ袋も置いてあったらしく、雑誌や新聞の切り抜きを利用して
簡易的にトイレも作ってあった。

おじいちゃんの部屋で二人で寄り添って、余震のたびタンスを押さえながら寝ていたそうで
 本当にほっとした。

神様、この家を潰さないでくれてありがとう。
二階までの浸水がなかったのが なにより、感謝しなければ。

でも、私たちがここには帰れない。
もう 高校生と中学生の娘の体はデカイし、るーくんだけっても思えなかった。
もう、5人がバラバラになるのも嫌だった。
狭い ふた部屋だけの二階に7人は無理。
私たちはまた 中学に戻って過ごすしかなかった。
この時は はっきりそうは思わなかったけど、きっとそう判断したから
二日目も中学校ですごすことになったのだと思う。

とりあえず、来た時には たまたま水没せず、掛けてあった洗濯物から自分のズボンなどを
ジッチが取ってきてくれて
暖かくなりそうなものを厳選してジッチとおばあちゃんがゴミ袋に詰めてくれた。
バックも貸してくれた。

私は寒くて階段の中腹で立っていることしかできなかった。



↓翌日の玄関の様子。これで、外からは入れず、動かすこともできなかった。
玄関のチャイムが壊れてずーっと鳴っていた。掛けてある防寒着は無情にも水没
P1000276.jpg

↓茶の間となりの部屋。畳が 上に敷いていた上敷きとカーペットごと浮いている。
タンスが斜めになってる。 ここに洗濯物が干してあった。
濡れたものもあったけど、私たちの衣服はここにあるものだけがとりあえず使えるものだった。
P1000278.jpg

↓ここが私たち家族の部屋。
こたつの下にタンスが上向きに倒れていて、TVボードの下にTVがあったのにはびっくりした。
なぜか、PCはそのままデスクの上に。
ここの部屋の窓から 物を踏みつけながら家に入った。翌日はまだ 床にも浸水していた。
奥の寝室のタンスも残念ながら倒れていた。
手前に写っている本棚は転倒防止金具が一箇所だけ付いたままだった。
P1000277.jpg


私たちの家では もちろん家電、家具、ありとあらゆるものが全てダメになってしまったけど
まだマシな方。
大通り一本 はさんで 南へゆくと、こんなふうに 部屋に物が残っていないのです。
たった数百メートルで 大きく人生が変わってしまう。
波の勢いが強く、流れてくるものも多く、
窓ガラスは割れ、物が流出してしまい、ほかの家の庭先にうちのタンスが・・・なんてのはザラな話。
道路に出ているガレキのどれが自分の家のものなのかなんて もはや分からないという所もあったそうです。
片付けたくても 家に車が何台も入り込んでいるとか・・・。
それが、小学校の学区内だから 辛い。
家の中で祖父母の亡き骸を見つけたあーねえちゃんの同級生もいます。

そして 同じ中学校の学区が津波と火事で壊滅状態になるなんて。
子供達の友達、同級生が沢山住む街。
さーねえちゃんの級友も天国へ旅立ってしまいました。

「うち、土台しかなかったけど、筆箱と制服は見つけたんですよ!」と明るく言う子。

私自身も、同級生や先輩、ママ友が沢山いる街。

ジッチとバッパのことは 感謝します。
でも


やっぱり神様はいるのだろうかと思わずにはいられません。


ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/20 06:17 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(4)

一晩明け 3月12日の記憶-その1。

とにかくあーねえちゃんと合流してほっとした。
家族5人が揃って、一安心した。
あーねえちゃんを車に連れて行ったら「え?この車、何?」・・・ 知らない車だと思ったらしい。
やはり、迎えに行ってよかったと思った。

朝 明るくなってから数時間。
車のガソリンがないことが すごく じれったかった。とにかく なんの情報も得られない。
かといって 他の人に「ラジオ聞かせてください」っても言えない雰囲気。
体育館でも まだ ラジオを流す様子もない。ステージには「本部」らしきものが出来ていて
人が数人ステージに座っているのが見えた。

私は、「非常持ち出し袋」を玄関に置いてきたことを 心の底から後悔する。
なんのために、手回し充電付き、ラジオ付きのライトを買ったんだ!
電池も一式入れてあった。ビスケット、生理用品、エトセトラ・・・
ねぇ私、家を出るとき「非常時」だったんじゃねーか?
あの時の私に言いたい。

とりあえず、5人で「これからどうする」の協議の結果、
中学校よりも高台に登った所にある、一番近いコンビニに行ってみることにする。
もしも お店が開いていれば 何か食べ物を買ってこよう。
お父さんとさーねえちゃんで買出しに行ってくれることになった。

だいぶ並んだそうだ。もう、ほとんど商品はなく、あるもので空腹しのぎになる物を結構買ってきてくれた。
ガム20こ位、スナック菓子2~3袋、スルメイカ小さい100円パック2~3袋、
500ミリペットボトルの烏龍茶、ジュース類数本。

ただ、長期化するであろうこの状況。学校の配給もどうなるかわからない。
5人で何日間すごせるのか。まったく足りないのは事実だけど仕方ない。買えただけラッキーだった。
これらを、こそこそと車の中の 外から見えない場所に隠すように置いた。
恥ずかしいけど、そうした。

誰かに見られたら、ガラスを割って取られるかもしれない そんなことも思った。

実際、わたしだって他の車から見えた「新聞紙」にさえ「いいなぁ」と思った。
それを、子供たちに掛けてあげたい。そう思った。

とりあえず 夜の寒さも尋常じゃない。
一度家に戻って、毛布とか使えそうなものがあれば持ってこよう。
そして じっち、ばっぱの無事を確認しよう・・・。
家に戻れるなら、戻ろう!と。

お父さんと私二人で下山(?!)することにする。

そんな話をしていたころ 偶然、私の父方の叔父といとこに遭遇する。
車を近くに停めていたのだ。
お互いに無事を確かめ合い、喜んだ。親戚でも、近くにいても、年に数回しか会わないのだが
この時ばかりは 知っている顔を見てホッとした。
そして、後に ここで偶然 叔父さんと会ったことが
私たち家族の今後の行方を変える事になるなんて この時はまだ思いもしなかった。



子供達を車に残して行動を開始した。

学校からまっすぐ坂を降りて行くと 下の道路にもう水はなかった。よし、行ける。
大きな流木が道をふさいでいてそこからは大通りにでられなかったので、
店の駐車場を横切って一本となりの道へ出ることに。
そこは泥んこがドロドロに溜まっていて足を取られながら進んだ。と、いっても数センチの高さ。
わたしはスニーカーっぽい靴を履いていたが大丈夫だったから。
今思えば そこで 靴が濡れないように歩いていたのが バカバカしくなるけれど。

坂を無事に降り、大通りに入る。
昨日 車で来た道を 今度は歩いて帰っているだけなのに
こんなにも 景色が違うものなのか。

坂をおりてすぐの交差点付近
ベニヤ板、製紙工場から流れてきた 巻き取り紙、古紙の巨大塊などが目に飛び込んできた。

道路の真ん中を歩く。
歩道は水たまり、泥だらけ。車が積み重なっている。中央線の所が一番安全だった。
今思えば、行き交う人たちみんな、道路の真ん中を歩いていた。
不思議と、車は全くないところと、脇に寄せられているところなどがあった。

歩いていると風景が変だった。いつもやっているはずの店はすべて閉まっていた。

大通りは水が溜まっているところは少しあっても、とりあえず普通に歩けた。

るーくんの小学校に入る所の交差点に来て、ぞっとした。
あの時いた 宅配便のトラックが、そのままに水没したと思われ、放置されていた。
その後ろには 玉突き状態の車の列・・・玉突き?いいや。重なって乗り上げている状態。
水もあるのではないか?道路が光って見える。
もし、あの時 私もここを車で曲がっていたら・・・。

小学校の様子がすごく気になった。
あの時会った仲良しのママは無事だろうか。
(後に連絡がとれ、家族全員無事でした)

交差点のコンビニを見た。
さーねえちゃんの自転車があるか一応見渡したが、姿形もなかった。

でも、とにかく まっすぐ進むことしか 考えられなかった。

しばらく家に向かい西に進む。
すると すれ違う人たちが、足にゴミ袋をテープで巻きつけて「簡易長靴」にしていたり、
長い棒を持って杖替わりにしているのが多くみられた。
水たまりをジャンプしたりしてよけていた私たちに男性が一人、声を掛けてくれた。
「この先、奥に行くんですか?」
「はい。」
「水がまだいっぱいありますよ、行けないかもしれませんよ」
と、教えてくれる。
「行けるところまで行ってみます」
お父さんはそう答えて、私も会釈した。
親切な彼はどうやって どこからきたのだろう。そう思うのに時間はかからなかった。
ちょっと進んだら、目の前が、一面水。まるで砂浜の波打ち際のように
水没地帯が現れた。

遠く前を見ても 茶色く濁った海水に覆われている。
せっかくここまできたのに。
自宅まであと200メートルもあるだろうか。
でも、見た感じ 高さはまだ靴が濡れる程度だった。足首位。

「よし、いくぞ!」お父さんは言った。そしてじゃぼじゃぼ入って突き進んだ。
私は もう、あとを付いてゆくしかない。

進めば進むほど 深くなっていった。
そして、氷のように冷たい。本当に、経験したことのない冷たさ。
まさか、通りを西に進むにつれて、被害がひどくなっているとは思わなかった。

足元が分からない。足しか浸かってなくても歩くのがやっと。
杖を持っていた人がいた事も、納得する。
膝より少し上位の水位だっただろうか。

家に行くには、大通りの途中の脇道を右に入る。水に入ってから
100メートル位の距離だがやっと、そこの入り口にたどり着く。

口があんぐりする。
本当に「あんぐり」って言葉がぴったりだった。
会社事務所と、コンビニの間を入って行くのだが、広い駐車場奥のコンビニが水没してる。
事務所のフェンスが上3割しか見えない。
大通りは少し高くなっていて、ほとんどの脇道は低くなっているのだと思う。

とりあえず、曲がる前に一旦休憩した。そばにあった軽自動車に お父さんは腰掛けた。
私も ガードレールに腰掛けた。
そしたら 風に当たって 濡れたジーパンが重くまとわりつき、とにかく冷たい。
二人で 「どうする?」と顔を見合わせた。
曲がるのに、覚悟が必要だった。

その時、
その近くの家から 「○○○○!!」と泣き叫ぶ嗚咽が響いてきた。
きっと 犠牲者が出てしまったのだろう・・・。
急に 家のじっちとばっぱが心配になる。
その嗚咽は 私たちの覚悟を早めさせた。

「よし、いくぞ」のお父さんの声で また ジャポンと浸かる。

今度はもっと冷たく感じる。二人でがたがた震えた。
 
脇道に入ったとたんに、一気に太ももあたりまで浸った。
あまりに冷たいので、事務所のフェンスをよじ登ぼって、つたっていこうとしたけど、
フェンスに足を引っ掛けることができず、断念。
ジャブジャブ歩いていると
少し離れた 横の方に何となく目をやった。

人が浮いていた。男性だった。60代か70代だろうか。
海の方から流れて辿りついたのだろうか。


でも どうすることもできず、前を行くお父さんに言うでもなく、
そして お父さんも気づいているのか、いないのか 何も言わず ただ前に進んだ。

近くにいた近所の会社の人たちが 窓から見て ざわめいていた。

いや、でもよくわからない。見間違えたのか。

この頃の事は 全ての目の前のことが理解出来るまで 何日間も時間が必要だった。

進めば進む程、水深が深くなる。お尻ギリギリ、なるべくつま先立ちで歩いた。
もう一つ曲がり角を曲がって やっと家が見えてきた。

周囲の家も水没しているものの、大きく破損はしていなかった。

地主さんの大きな家の2階の窓から「託児所のお母さんですかー?」と子供を抱いた女性に声をかけられた。
「違います~!!」と答える。大家さんの娘さんか、託児所の保育士さんか。
すると、とても残念そうに肩を落としているようだった。
大家さんである、この家に 近所の託児所の赤ちゃんが避難しているようだった。
親御さんと連絡がとれないのだろう・・・。一晩中 暗い中
小さくても預かる命の重さに 辛い思いをしていたのかもしれない。

前進し続け、家の前まで来た。
ベランダ側から 2階に向かって叫んだ。

「ジッチー、おじいちゃんー!!おばぁちゃんー!!」


二人で叫んだ。



ガタガタッ

窓が開いてベランダから ジッチが身を乗り出した。

「おーーー○○子!!○○ちゃん!!無事かー!!」


元気そうに私とお父さんの名前を呼んだ。

すると後から「え?うそ?!」と言っておばあちゃんが出てきた。

二人とも無事だった。

ほっとした。


P1000282.jpg

これは ジッチがベランダから撮影した写真。
防寒着や着替え、毛布を濡れない様に袋に詰めて 
自転車に乗せて また中学校に戻る様子。

ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/17 03:20 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(4)

3月11日の記憶-その5。

だいぶ 話が前後するが、

お父さんが あーねえちゃんに 私たちは中学校にいると伝えに行ってくれた時
会社の人と偶然会い、高台から南方面を見に行ってみると
火の付いた家がすぐ近くまで 流れて来ていたそうです。
あまりに現実離れしている光景を見た彼は 平然と私に教えてくれました。
それを聞いた私も「えー、やばいじゃん」ってな感じでした。

カーラジオから聞こえるニュースも 全く、現実のものとは思えなかった。
聞き覚えのある土地の名前ばかり出てくるのが なんだか 違和感があったけど。
そして福島の原発が津波にやられたことも耳に入ってきて
私たちはすぐに「女川原発も、もしかしたら」と思った。
隣町の海岸沿いにある原子力発電所。
もしも そうならば 電気はいつくるのだろう・・・そう思った。
「放射能」への危機感が全くなかったのが今思うと恥ずかしい。
東京では帰宅難民がでている?
あぁ、きっと千葉に住まいのある兄は、帰れていないのかもと思った。
(実際そうだった)
なんだか とにかく 世の中大変なことになっている。

私は車から「家」に連絡を試みた。
おばあちゃんやジッチの携帯、家の電話は全くつながらない。
義母、義父の携帯、ダンナの実家も同じである。
ダンナの実家は同じく石巻でも 海は離れているが、川や運河が近い。

携帯の電池がもう残り少ない。
やけくそにおばあちゃんにメールを送った。
「中学校にいます。全員無事。」と。
自分たちの安否を伝える事だけに文章を絞った。
無情にも「送信できませんでした」のエラーメッセージが出る。
もう一回だけ送ったけど、またエラーだった。

家の2階に無事で居てくれることを信じて、電池の消耗を防ぐために電源を切った。


お父さんが「やばいよなー」と言った。
運転席のメーター回りに目配せした。
ガソリンのメモリが一番下のラインから ひとメモリだけ上のラインを指している。
「なんでこんなときに代車なんだ!!」「なんのために7人乗りの車買ったんだ!」
「なんのためにナビもTVも付いてるのに・・・」
自分の車だったら もっとガソリンも入れておくし
車中泊をするにしてももっと広くいられた。情報だって、TVが見れた。
そして きっと 車はどこかで津波にさらわれたに違いないと思っていた。

悔しいけど、今はなぜか 4人乗りのコンパクトカー。スズキswiftだった。
でも自分たちだけの居場所があるだけ 贅沢でありがたいことだったと後に知る。

ガソリンを消費しないように エンジンを切った。
寒かった。
私はGパンだったけど
さーねえちゃんはこんな日に限ってキュロットに生足にニーハイソックスだった。
お父さんが防寒着を脱いでかけてくれた。
みんなで座って眠るようにしたが 私は一睡もできなかった。
そう、この前の日まで何年間も睡眠剤を飲んでいたのだから。薬が無くて眠れるはずもなく・・・
寒さが限界になってくるころ またエンジンをかける。その繰り返しだった。

夜中12時を過ぎたころだったと思う。
防災無線がまた けたたましく響いた。

「門脇町、南浜町の火災が広がってきています。 ○○丘2丁目~4丁目までの方は大至急
 高台の○○中学校か○○中学校に避難してください!」
何度も何度も サイレンとともに放送される。

指定された○○中学校は2校とも並んで立っている。まさに私たちが居るところだった。
だから 怖かったけど ここに居て大丈夫なんだと思った。

「え~!!やばいなぁ・・・って、まてよ。あーねえちゃんの高校の住所って○○丘じゃねっけが?!何丁目や??」
「そうだよね、えーっと何丁目だったかな?あー姉ちゃんたちもこっちにくるかな?大丈夫かな?」
お父さんと 二人急に不安になった。
私は 娘を学校に置いてきたことをものすごく後悔する。
もしくは 自分たちも高校に居れば一緒にいれたのに・・・

ここで心配していても仕方ないからと、お父さんが「見てくる!」と
外へ出た。

待ってる間、とても長く感じたのを覚えている。
しばらくしてお父さんが寒さに震えながら戻ってくると
「すれちがったかも、もう全員避難したんだって。やっぱり 火の手は高校の近くまで来てるみたいだ」

今度は 私が 中学校の体育館を見に行ってみた。
暗くなった真夜中の体育館。夕方頃とはまた状況が一変していた。

一階の武道場は階段を使えないお年寄りの方々がすし詰め状態だった。
こんなとき最新のエレベーターを設置してあることにショックを感じる。
窓ガラスが人の熱気で曇っていた。
階段、踊り場、全てのスペースに人が横たわるか座っていた。
やっと体育館に入ると ものすごい人、歩ける余裕がほとんど無い。

別の出入口の方から「○○~!!いるかー!?」「○○小学校の○○をみませんでしたかー?!」
と叫んでいるお父さんの声がした。
きっとずっと子供を探しているのだろう。
代わる代わる、呼びかける声が響いていた。
そのたびに赤ちゃんが泣いていた。

私もあーねえちゃんらしき姿を一生懸命探す。が、暗くてよく見えなかった。
私も声をあげたかったが、大勢の人に圧倒されて 声が出なかった。

そこに、あーねえちゃんの高校のジャージを着た女の子を数人発見する。
「同じ高校の子だ!」と思って 駆け寄り「吹奏楽部の○○はここの中学に来たかわかりますか?!」と聞いた。
すると「すみません、私 このジャージ貸してもらったのを着ていて、高校生じゃないんです。
高校生はどこにいったかまではわからないんです。ただここに連れてきてもらったので・・・」

よくみると中学生位の女の子たちだった。
ここがどこだかも分かってない様子だった。ここらへんの子じゃないのかなと思った。
きっと津波で濡れた衣服を脱いで、高校に置きっぱなしにしてある誰かのジャージを
先生方が提供したのだろう。

「そっか、ありがとう。ごめんね。」
そうしか言えなかった。


隣の中学の体育館も探したが こちらもいる様子がない。
こちらはみな土足で上がっていて 椅子に座っている人が多かった。
車に戻って お父さんに話す。

どっちかの中学に来ていることは確かだし、あーねえちゃんが家族がこっちの中学にいることはわかっているから
と、明るくなってきたらもう一度探すことにした。

明るくなってから 今度はお父さんが校舎内をまわってくれた。
全部の教室を「○○高校の○○いますか?」と言ってまわったそう。
一度お父さんだけ戻ってきて「あーねえちゃん居た!!」部活の先輩たちと一つの教室に固まって
カーテンを外して膝に掛けて寒さをしのいだらしい。

お父さんと、もうあーねえちゃんと別々に居ないほうがいい。と決断。
高校にいれないのなら 離れている意味も無い。
今度は私とるーくんで迎えに行った。
教室にいくと真っ白な顔してたけど 元気にしていた。
先輩に挨拶をして 部活のみんなと別れた。
やっと、安心した。
ついでに校舎の職員室前を覗いた。
いつもあるはずの場所に公衆電話がない。
公衆電話も使えなくなっていたのだ。伝言ダイヤルもダメじゃんか。。。
異様な孤独感を感じる。


その時 廊下で さーねえちゃん、るーくんの同級生ママと会った。
保育所からの付き合いで仲良しのママさん。まだ保育所に通うオチビちゃんもいる。
海の真ん前にある公営住宅に住んでいたから 恐る恐る聞いてみた。
「昨日から・・・ ここにいたの?」
そうしたら 泣いて彼女が抱きついてきた。
「職場から、保育所と小学校に迎えに行って、パパも合流して家から車で出たの。
そしたら あっという間に波が来て・・・」
パパが車のガラスを割って脱出して なんとか高台に登って、
見ず知らずの人の家(お医者様宅)に一晩お世話になったという・・・。
大変よくしてもらって、服なども貸してもらったそう。

よく見ると 彼女の頬や手には細かい切り傷が・・・。
私は 言葉がなかった。どんなに怖かっただろう。
ただただ、彼女達5人が無事でよかった。
それしかなかった。

るーくんは保育所時代の彼とはとっても仲良しで、小学校は別々だが
中学には同じになるのをとても 楽しみにしていた。
るーくんもびっくりして 彼と抱き合っていた。

いつしか 私たちは 顔なじみと会うと「生きてたか・・・?!」が挨拶になっていた。




つづく


ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/12 03:18 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)

年賀状

早いもので もう12月過ぎて、年末来ちゃいますよね。

今年の年賀状はどうしたらいいのだろう。
そんな記事が地元ローカル紙の一面に。

震災の津波被害で みんなの住所がわからない。
転居した人、住所録がなくなった人、PC、携帯をダメにして 過去データ、メアドすらわからない人。
などなど。いろんな状況の方が沢山いると思われます__

こんなのは もう、朝飯前さ。だれも驚きゃしない話。

それよりも
全国でこの震災によってたくさんの命が亡くなっているのに
手放しで「あけおめ~♪」って・・・いいのかなっても思う。
なんとなく不謹慎のような。IN 被災地だから過敏に思うのかな。
新聞でも 出しても おめでたい言葉「謹賀新年」などは控える傾向と書いてある。

でも、あえて「日常の習慣」を貫くことも 大切な心の復興の一歩。


いつも年賀状のやり取り位で、なかなか会えない友人達には 
身内にご不幸があったこともわからない。
こるくの場合、新聞だって 家に戻るまでろくに見れなかったから
人づての情報しかしらない。

子供達だってそう。
友達のお父さん、お母さん までは分かっても 兄弟姉妹や祖父母まではわからない。

うーん、これを考えだすと 悔しくて苦しくて悲しくて どうしようもなくなってしまうので

「未曾有の災害だったのですから」

と、切り替える。


だから 地元の人には うちに来たら出そうかなと思っています。
みんなもそういう意見が多かった。
って、みんなそうならば だれも出さないのでは・・・?!
まぁ、なんとかなるかな。



全国でも自粛ムードがあると聞きました。
そうなのか?
もう あれから9ヶ月。
被災地以外では もう 震災はとっくに過去の出来事になっているのだろうと思ってた。

そうしたら こんなサイトを見つけました。

 「元気だ状プロジェクト 被災地から元気と感謝を発信しよう」


おお!悩みを解消してくれる 素敵な取り組み。
早速 こるくも親戚などに送るのには最適と思い 注文しました。
お値段も優しくしていただいて かたじけない。

こうして まだまだ 被災地への応援プロジェクトがあって
気にかけてくださっている方がいることに
本当に 本当に 感謝の気持ちでいっぱいです。

この場をお借りして 全国の皆様 全世界の皆様に感謝します。
ありがとうございます。



来年は けしごむはんこで年賀状・・・な~んてできたらいいな。




ジャンル : 日記
テーマ : みんなに知って貰いたい事

[ 2011/12/09 05:47 ] 日記 | TB(0) | CM(2)

3月11日の記憶-その4。

とにかく 「道路に海水が来ていて家に帰れない・・・。」

そのことしか頭になく 特別に騒ぐわけでもなく、動揺するわけでもなく
また 高台の中学校に戻った。

さーねえちゃんとるーくんを探す頃は だんだんと体育館の中に人が集まってきていた。
二人を見つけると、るーくんがすごく不安そうだった。さーねえちゃんもまた別の友達の家族と一緒に居た。
子供たちなりに何か大変なことになっていると察していたと思う。

「大通りに、津波の水が来ているから、下に降りれない!!
家には帰れないから、とりあえず今日はここに居て様子をみよう」

そんなことを言ったと思う。

「ジッチとおばあちゃんは??」と二人は言った。
「大丈夫。家にいたから。きっと2階にいるから大丈夫だよ」
なんの根拠もないけどそう言った。
大通りに 浸水はしていても 建物などが目立って倒壊している様子はなかったので きっとそう思ったのかもしれない。

ちょうどその頃、この高台の山の下で 大津波がなんども押し寄せて 火事が起きていることも
全く想像もできず 
さーねえちゃんがお世話になったお母さんと体育館の話をしていた。

さーねえちゃんの学校の体育館は、新しく出来たばかりだった。
入学式を終えてまもなく、老朽化した体育館は取り壊され、立派な2階建ての体育館に生まれ変わった。
2年生の3学期から授業で使用できるようになり、2月に一般完成披露会をしたばかりだった。
私はそれに出席しなかったので 初めて見る新築の香り漂う体育館にきょろきょろした。
なんとなく生徒達と保護者以外の方々が次々と入ってくるのが 変な感じがした。
(ある意味、このタイミングで完成していてよかった。工事中だったらと考えるとゾッとする)


体育館のトイレはすごい行列ができていた。特に女子トイレ。
私も、今のうちに行っておこうかな・・すいたらでいいか。そんなこと思ってたら
あっというまに「体育館のトイレは使用できませーん!!」という先生の声がした。

詰まったのか。水が出ないのに 大勢で使えば仕方がない。

考えてみれば、私はいつ断水になった事に気づいたのだろう。
このトイレの一件の時だったのかな・・・??

その後は外の簡易トイレを開放していたが、 そこも汲み取り式のトイレ。
使えなくなるのに さほど時間はかからなかった。

そして今度は校舎の1階のトイレを開放した。
私は暗くなってから校舎のトイレに行った。トイレのドア前に懐中電灯を持った女性が椅子に座っていて
「外ドアは開けっ放しで」とちょっと厳しい口調で言った。
なんだろう??と思ったら、彼女は足元を懐中電灯で照らしてくれた。

個室は真っ暗だけど、ドアを閉めないわけにはいかない。でも床を照らしてくれていたので
ドアの下の隙間から十分明かりが入った。照らしながら彼女は淡々と少し大きめの声で

「ペーパーは便器に落とさず、壁にガムテープで固定したゴミ袋へ。」
「水が出ないのでレバーは押さない」
そう廊下から言っていた。

用を済ませて 廊下に出たら すれ違いに他の人が入った。
彼女は、私にしたことと全く同じことを繰り返していた。
誰かがトイレに来るたびに一晩中これをしていたのかな。私はこの時灯りがあってよかったとつくづく思った。
ありがとうございますとお礼を言った。こくんと会釈で返してくれた。
先生ではなかったと思う。市の職員なのかな? 

でも、さすがにそのまま流さない・・・は衛生上良くない。次の日明るくなってからには
先生方なのか、プールの水を調達してくれて
バケツ2~3つ分、置いてあった。さすがに大便で汚れている個室が多くなっていた時は、そのバケツで流した。
なんとなく、気づいた人が流す的な感じになっていたが 

三日目には、プールの水を大きなポリバケツ(ゴミ箱みたいなもの)に汲み貯めて、
自分でバケツに汲んで、流すルールになっていた。
水の確保ができたと思った。


話が前後するが

夕方暗くなってからも体育館にくる人が絶えずにいた。
始めは、横のスペースにブルーシートをひいて、そこに外靴を置いていたが
あっというまにブルーシートは隅に追いやられ、邪魔になると思い、あわてて靴をとりに行った。

だれも取り乱すわけでもなく ただ そこに みんなで座っていた。
体育館の窓ガラスが がたがた鳴っている。風?いや地震だ。
不気味な音だった。


18時から19時の間だったと思う。配給があった。
今思うと どうやって確保したのだろうか。
順番に優先順位で並ぶように呼ばれた。
「お年寄り、小さなお子様のいる方」
「子供さんがいる方」
「自分で食べるものを持っていない方」・・・

魚肉ソーセージ一本、おせんべい2枚入ひとつ、一口チョコ2つだったと思う。
ひと家族につき このワンセットだった。

あとは、袋に入ったチョコレートが「取って回してください」と回ってきた。
そこで人数分取り、横に居た車椅子のおじいさんとそばにいたおばあさん、
後ろにいた5才と3才くらいの男の子にも渡してあげたら 袋はカラになった。

私たちはチョコレートをまず食べた。
魚肉ソーセージは4人で分けた。
おせんべいとチョコ一つは あーねえちゃんの分としてバックに入れた。

食べ終わっても 体は暖かくならなかった。寒くてもじーっと体育座りで眠るしかない。
ますます 窮屈になってきていた。 それでも 異様なまでに静かだった。

「○○保育所の先生方いますかー?」と呼び出している声がした。
沿岸部にある、うちの3人の子供達もお世話になった保育所の名前だった。
って、ことは保育所の子供たちもここにいるのか?と思うくらい 子供の声に気づかなかった。
慣れない状況、お母さんと離れて、怖かっただろうに、でも 必死にいい子にしていたんだろう。


時々そういった呼び出しや、人探しの呼び掛けはあったものの、何か情報提供があるわけでもなく、
でもみんな何かを期待はしていて・・・でもただ時間だけが過ぎていった。
なんの話も進展もないのか・・・そういった空気になって
私も子供達も だんだんと増える人の中にいるのもしんどくなり、車に行くことにした。
結果的には「本当にいく場のない人」のためにスペースをあけることにつながった。

車に行ってから びっくりした。

たまたま、南側に向けて停めた車。
空が真っ赤だった。正確に言うと、濃い霧のような煙の隙間からみえる空の色が赤・・オレンジだった。
南浜町、門脇町が燃えている。


カーラジオから「門脇小学校全焼」「仙台若林区沿岸部にて200~300体の遺体発見」、「仙石線車両(仙台、石巻間を通る電車)が行方不明」、「女川町連絡とれない」

時々、パーンと空に響く爆発音。
ひっきりなしに揺れる車。

なんのことだか さっぱり理解できなかった。

真上を見ると 満天の星空だった。
星が手に届きそうなほど低く、本当にきれいだった。

それは 世の中の灯りがなくなったから見えた星空だった。



つづく

ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/08 01:04 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(1)

お土産


おみやげ

あーねえちゃんから 修学旅行のお土産をもらいました☆
有名な「よーじや」さんのあぶらとり紙。
そして、ハンドクリーム&リップクリームのミニセット。
本場から買ってきてくれました。

京都発祥ってだけで「ケア用品」じゃなく、「お手入れしはるもの~」って感じがします。

ありがとう。
大切に使いますね。

この震災で 修学旅行はなくなるかと思っていたけど
予定通りに行けて 本当によかった。

初めて乗った飛行機に、離陸時に総勢200名で絶叫したそうです(笑)
京都での自由行動では お昼に「鴨南蛮うどん」食べたそうです。
そこのお店のおじさんが 石巻から来たと知って デザートをご馳走してくださったそうです。
とても優しいおじさんで 嬉しかったそうです。
そして改めて「石巻」って有名になったんだねって思ったそうです。
(私たちは、全国のみんながこんなに ここで起きた事を知っていることが不思議なんです。)

奈良では 鹿が寄ってきて怖かったそうです。
大仏さんが思った以上に大きくて感動したそうです。眉毛の間は1mなんだそうです。

大阪では USJのアトラクションに絶叫しまくったそうです。
ジュラシックパークの恐竜に無駄に水をかけられたと怒っていました(笑)

帰りの飛行機は 皆さんUSJのおかげで、離陸絶叫はなかったそうです(^0^))

お土産は このほか、家族一人一人にキーホルダーやらいろいろ。(お父さんはせんとくんストラップ!)

あとは 八つ橋に京バゥムクーヘン、クッキーに漬物・・・って食べ物ばっか!!
さすが食い気まんまん女子高生だわねー。

ま、よかったよかった!楽しんで 無事帰ってきたから。





この写真撮るときに
あぶらとり紙の絵の女性のお顔・・・ 顔認識しました(;゚Д゚)!

ジャンル : 日記
テーマ : ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙

[ 2011/12/05 05:54 ] 子供の成長 | TB(0) | CM(4)

3月11日の記憶-その3。

とりあえず さーねえちゃんと無事に合流し、Nちゃんたちとお別れして今度は4人で車に乗った。
この時、お父さんが「あーねえちゃんも乗せて帰ろう」と言ったので
高台の奥にある あーねえちゃんの高校へ向かった。

ところが だんだんと道が混み、ぜんぜん動かない。
仕方なく 途中から私だけ歩いて先に高校へ向かうことにした。

雪が降っていた。

高台のすぐ下の河口や海岸近くの加工場の従業員の人たちが 避難して
白い制服で列をなして歩いていた。
だんだんと 異様な雰囲気に切迫感を感じた。

あーねえちゃん・・あーねえちゃん・・

高校に着くと 避難してきている人の対応で生徒や先生がスリッパやビニール袋を配っていた。
この日は授業はなく、部活動で登校している生徒しかいなかった。

入口の生徒に吹奏楽部の○○はどこですか?と聞いたら すぐにあーねえちゃんの所に案内してくれた。

あーねえちゃんは、薄暗くなった校舎の中で避難してきている方々の足元を 自分の携帯電話で照らしながら
「トイレはこちらです」と叫んでいた。

吹奏楽部の子達は、廊下に数人で適度に間隔を開けて立ち、避難者の誘導をしていた。
あーねえちゃんに近づこうとすると、

トイレはどこですか?スリッパありますか?和室はどこですか?体育館にはどうやっていくんですか?
いろいろなひとに生徒たちが質問攻めになっている。
迷子になった小さい子もいた。

やっとあーねえちゃんに近づいて話しかけた。
「大丈夫?迎えにきたんだけど・・・。どうしようか。」

「うん、大丈夫。今は忙しいよ。帰っていいのか・・・」

「これじゃ お母さん、あーちゃんを連れて帰れないね。みんなの役にたたなきゃ」
「うん。(私もそう思う、という感じで深くうなずいた)大丈夫。」
「じゃ、お母さんたちは一旦帰るからね。落ち着いたら気を付けて帰ってくるんだよ。
車はすごく渋滞していて もう出せないかもしれないから、歩きのほうが早いから」
「うん、うん わかった。んじゃね。」

そう言って別れました。
なんとなく 不思議そうな顔をしていましたが しっかりとした声、返事。
地震で怪我などしていないか心配だったのに、
一生懸命 みんなのために働いてる姿にほっとした。

私は高校からまた来た道を戻り 渋滞に巻き込まれている我が家の車を見つけ、車に乗り
事情をみんなに話した。

あーねえちゃんはまたあとから迎えにこよう。一旦家に帰ろう。
とりあえず 家に帰ろう。お父さんも私も、なんの疑いもなくそう決めた。

そしてUターンして坂を降り始めた。
降りる車線はそれほど込み合っていなく のろのろと進んでいたら
偶然 義理の弟と遭遇!(ダンナの弟、会社も同じく工業港湾)

ここらへんの会話はあまりはっきり覚えていないのだが
義弟「おお、無事だったかー。さっきおっとう(お父さん)にも会ったぞ、無事に避難してたぞ」
(ダンナのお父さんも港湾部にある工場で仕事していた)

「もう津波の水が来てるらしいよ、たぶん 車じゃ行けないかも。おれは行ける所まで行ってみる」
ダンナ「おお、わかった。気をつけろよ!」

そんな会話をしたと思う。

そして坂を降りていくと 運転していたダンナが言う・・・

「え??なんでだ??
 だめなの? これ以上行けないの?水がきてるの?!」

?????????????????????????

歩行者の人たちが坂のふもとに居て、大通りを見ている。 
そこから上がって来る人たちが「水きてるよー!行けないよー!」と教えてくれたのだと思う。
(←もはやこの辺の記憶飛んでる・・・)

その後も まったく覚えていないのだが
とにかく なんとかさーねえちゃんの中学校に戻って、今度は車を校庭に停めた。
駐車場として開放した校庭は けっこう車が停っていた。

そして さーねえちゃんにるーくんを託し、体育館で待ってなさいと言って、
お父さんと二人で様子を見に 坂を歩いて降りてみた。

さっき通ってきた大通りをまっすぐ直線に見えるところに行った。
すると、道路に水があり 木やゴミが流れてきていて たくさんの車が列をなして
浮いているというか沈んでいるというか・・・
もう一歩で坂を登れるはずだった手前の車は
ハザードランプが点滅し、なぜかエアバックも出ていて、クラクションの音がけたたましく鳴り続けていた。
人は乗っていなかった。


何が起こっているのか全くわかっていないで 通りの様子を見ていたら、
「○○小学校の6地区の人ですよね??」と女性が近づいてきた。
(6地区とは学校の学区)

「そうですよ」と言うと、

「どうしよう、子供が学校にいるのに迎えに行けない・・・
学校にいるのかもわからない、居ないかもしれない、お父さんが行ったかも$%&@;*~」
もう何話してるかわからない。

お互いに知り合いではないのだが、多分、私のことを見たことがある
同じ小学校のお母さんのよう。

私は とにかく動転している彼女をぎゅ~っと抱きしめて
「大丈夫!絶対学校にいるから。先生方、2階に避難するって言ってたよ」と
そんなようなことを言った。
今思うと 自分が一番パニックになっていることがわかってなかったな。
自分が、まるでドラマの主人公にでもなったみたいに一丁前に人を励ましてた。

でも、彼女は ちょっと知ってる人に会って泣いたら
すっきりしたみたいで だいぶ落ち着いたみたいだった。

彼女の実家が高台にあるらしく 実家に帰るように話した。
私たちも中学校へ戻ることにした。

道路の横の家から人が出てきてた。おばさんがカイロをわけてくれた。
暖かかった。


家に帰れない。

そんなことしか 頭に浮かばず また坂を上へ歩いた。

あーねえちゃんが急に心配になって、今度はお父さんが高校まで歩いて行ってくれて
「下は水がきてて帰れないから。4人で中学校にいるから。」と伝えに行ってくれた。

家にはおじいちゃんおばあちゃんがいる・・・
心配だったけど その時は不思議と「大丈夫。きっと2階にいる」と思った。


つづく。

ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/03 22:14 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(4)

3月11日の記憶-その2。


つづき



近所の人が 外に出ていた。
「車がすごい渋滞してきてるよ~」と大通りを見てきたと言っていた。
私は一瞬迷った。歩きで迎えにいくか・・・車も慣れないしなぁ・・・
「慣れない」というのは、車本体のこと。
たまたまマイカーを数日まえから車検&修理に出していたので代車だったのだ。

でもいいや、行けるところまで行って 連れて帰ってこよう。

そう思い 家にまた戻って、車の鍵を手にした。
普段の車移動の癖(いや、なまけ癖?)が後でとても怖いことだったなんて思わず。

「るーくんの迎えに行ってくるからー!」とおじいちゃんとおばあちゃんに玄関から叫んだ。
「気を付けてよー!!貴重品、身に付けておいたほういいよ~!」
このおばあちゃんの言葉になにげなく反応した。
一度部屋に戻って、通帳や印鑑が入っているポーチをバックに入れた。
そして 押入れの天袋に置いていた「非常持ち出し袋」を使いやすい所に置こうと思い、
とりあえず玄関に置き、学校へと向かった。この時はるーくんと家に帰るつもりだった。
そして、さーねえちゃんが無事帰ってきますようにと願っていた。

小学校までは 大通りを直線で5~600m位東へ向かう。
やはり 車はすごい渋滞していた。
ただ 大通りにはわりとすんなりと入れた。が、いつもより のろのろと進む。
信号機がまっくろだった。停止している。あぁ停電なのか?だから混んでるのか?
みんなで一斉に学校に迎えば混むだろうな~、学校に車止められないかも・・・

そのくらいにしか まだ思っていなかった。
そのとき何時なのかも覚えていないし カーラジオも付けなかった。

ただ なんだか異様な 経験したことのない光景だった。

大通りから学校に向かうには 今度は交差点を南へ右折しなけれなならない。
ところが ここが 全く動かない。

大通りから右に見える学校の前の通りがものすごい数の車で動かない。
大通りに出ようとしている列がすごく並んでいた。先頭の宅配便のトラックが
交差点に無理矢理 頭半分出していた。でも 大通りの直進の車はそれをさけて真っ直ぐ進む。
だから 余計に混んでいる。だれか 一回 止まって入れてくれたらいいのに・・そう思った。
でも、西へ向かう直進車はとても混んでいて、だれも止まる気配を感じなかった。

ここは 右折で入れないな

そう思い、交差点左側にあるコンビニに車を止めた。
不思議なことに 車一台止まっていない。

ごめんなさーい、ちょっと 停めさせてくださいね
心でそんなことを言いながら 学校へ歩いて向かった。距離にして200m位かな。
やはり、学校からの車の列がものすごかった。
もうみんな 車に乗って大通りにむかっているが、まったくぴくりとも動いていなかった。

学校の前で 仲良しのお母さんと会った。車に子供たちを載せていた。
「こわかったねー大丈夫だった?」と話したら「大丈夫だよ、はやく迎えに行ってあげて~」と言ってくれた。

そう、考えてみれば けっこう時間経ってるかもしれない。
るーくんのおむかえ おそくなっちゃったな。

体育館へ急ぐ。
ガラスががたがた音をたてていた。まだ余震が続いてるんだ・・・と思った。
担任の先生が児童達を整列させた一番前で待機していた。

すぐ先生がきづいてくれて るーくんを呼んでくれた。
「校舎には戻らないで このまま ランドセルなどは置いていってください」
先生がそう言ったので すぐに上靴のまま荷物をもたずにお別れをした。

体育館には そのまま残っている父兄もいた。
顔見知りのお母さんに声をかけられた。
「怖いから 少し学校にいる」と言って、中学生のおにいちゃんも一緒にいた。
先生方が「そろそろ 校舎の2階にいきましょうか」と話をしはじめていた。

でも、このまま留まろうとは思わなかった。

るーくんと体育館を出て、上靴がバレーシューズだったので寒そうにみえたから
通りがかった昇降口の下駄箱から 外靴を持ってこさせた。
その時、「とーちゃん!!」
るーくんが言った。
え?と思ったら 見慣れない格好のヘルメットをかぶった男の人が 息を切らして居た。
よく見たらお父さんだった。会社の防寒着を着ていたので誰かわからなかった。


事務所から全員一斉に、本社に一旦車で避難して、そこから歩いてきたという。
(本社は事務所よりは北にある。小学校からわりと近い)
るーくんの迎えに行かなければと思ったらしく 学校にまっすぐきたそう。


偶然 ここで会えたのが本当に奇跡。

「さーねえちゃんがどこにいるかわからないの」とすぐに話した。
すると ここでまた奇跡がおこる。
お父さんの携帯がさーねえちゃんとつながった!
さーねえちゃんは Nちゃんのお母さんに車で乗せられて高台にある自分たちの中学校に避難しているという。

お父さんとるーくんと3人でコンビニに停めた車へむかった。
さーねえちゃんを迎えに行こう!となり、そのまままた大通りを東へ高台の中学校へ向かった。

渋滞はしていたが 意外にまたすんなりと列に入れて、のろのろながらも車は進んだ。
何回も言うかもしれないが、ここに至っても 
私は、とにかくこういう時は家族みんな一緒にいたほうがいい という思いだけで、
津波がくる!避難しなきゃ!とは全く思ってなかった。
繰り返し鳴っているサイレンの音にも、
もしかしたら 多少の水が来ても 家の中までは来まい。ま、来ても2階があるさ。
そんな感じだった。

中学校に着いて、避難してきている人たちがちらほらと体育館に入ってきていた。
さーねえちゃんがいた!
大丈夫??どこにいたの??話を聞くと
私が車を停めさせてもらった あのコンビニで買い物中に地震にあったとのこと。
店員さんに誘導されて 駐車場のガードレールのようなものにみんなでしがみついていたらしい。
気を付けて帰ってと言われ、さーねえちゃんもすぐに私に連絡したが
家も携帯もつながらなかったという。
そこで コンビニからすぐ近くのNちゃんの家に二人で向かおうとしたら
Nちゃんのお母さんが車で現れて、乗せて連れてきてくれたとのことだった。

「自転車は??どうしたの?」

そんなのんきなこと聞いていた。

「コンビニに置きっぱなしで来たよ」とさーねえちゃんは言った。



つづく。

ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/02 06:14 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)

3月11日の記憶-その1。

地震がきたその時 私は遅い昼ご飯を食べる所でした。1階の私たち家族の部屋にいました。
カップラーメンのスープをすすろうとした途端、がたがたがたっという音と横揺れ。
手に持っていた「麺づくり」から スープが波打ってこぼれてくる。
あっつくて持ってられずあわててこたつにカップを置いた。

はじめは、地震にはかなり慣れっこになっているので「またか」位にかまえていた。
2日前にも 大きい地震があった。津波注意報も出ていたが まったく被害はなかったことが
余計にそう思わせた。

だんだん揺れが強くなり 「鹿男あをによし」の再放送がかかっていたテレビはぶっつんと切れた。
「麺づくり」のスープがものすごいいきおいでこぼれて テーブルからずれ落ちた。
すごっ、おもいっきりこぼれたよ! 掃除大変だよ・・・
もったいない、一口もまだ食べてない・・

カーテンレールと背の高い本棚の間に渡してある 物干し代わりの太い突っ張り棒が、
かけてある服があまりに揺れるので耐え切れず自分に向かって吹っ飛んできた。
固定しておいたはずなのにとびっくり。
そして揺れはどんどん強くなってくる。

思わず カジュアルこたつの中に頭を突っ込んで、しばらく揺れる。
全然止まらない!
本棚の軽いカゴの入れ物なんかが落ちてきて 怖くてすっぽりとこたつに入る。
これでもか!これでもか!って感じに横に縦に揺さぶられた。
こたつの足にしがみついている手を離さないと、とまってくれないのかな?って思った。

おさまりそうで、おさまらない。
強くて長くて、床に這いつくばっているのが精一杯だった。
じわじわと、恐くなった。

ようやくおさまってきたころ どうやって入ったのかわからないが
なかなかこたつから出られない!(長身の私)体をひねって ようやく脱出。
2階のそれぞれの部屋にいたおじいちゃん、おばあちゃんに声をかけると
二人ともびっくりして下に降りてきた。
三人で「大丈夫かー!?」って言い合った。
おじいちゃんの部屋の本棚が倒れてきた!と言っていたが怪我はなかった。

意外に、部屋の物は何も倒れたりせず(もちろん転倒防止は万全だった)落ちたのは
服をかけていた竿だけ。
遠目に見た台所も 軽い物はちょっと落ちていたり、吊り戸棚が開いて鍋が落ちていたり。
冷蔵庫は倒れず、扉が開いて、中の物がそこらじゅうに散乱していた。
茶の間も 写真立てが倒れたり 飾っていた賞状額が斜めになっていた位だった。

三人で家に居て 子供たち、ダンナはそれぞれに出かけていた。
あーねえちゃんは部活で高台にある高校に。
さーねえちゃんは午前中卒業式で学校、午後は遊びに出かけていた。
るーくんはふつうに学校。授業中だった。
お父さんは会社・・・職場は石巻港の目の前の事務所。

とにかく 気になったのはさーねえちゃん。
「友達のNちゃんと遊んでくる」ってしか聞いてなかったから。
「この辺にいるのね~?」と聞いた頃にはもう自転車で出かけていたのです。
携帯に何度も何度もかけるけどつながらない。どこに行ったのだろう・・・!
きっとむこうからもかけてきているかも・・・と思い 時々リダイヤルの手を休ませる。

あーねえちゃんは大丈夫だろうか?
またしても携帯はつながらない。まぁ、学校だしとりあえず大丈夫!って勝手に思う。
るーくんは・・・?迎えにいかなきゃ!
(小学校で緊急時の対応については 震度5強以上、津波警報が発令時は各自保護者が迎えに行くことになっていた。日頃体育館で引き渡し訓練を実施していた。)

でも、学校から緊急メールくるか?いや来ないか?
一昨日はメールきたぞ。お迎えいらないって。あ、でも携帯つながりにくいし・・・
緊急時の対応プリントはどこだ??
そうそう、冷蔵庫に貼ってある。
つーか、震度いくつだ?
だけど なかなか 進んでいるようで進めない。余震がすごい。

一人で携帯持って、うろうろ。

とにかく二人は学校、お父さんは大丈夫(勝手に思っていた)、さーねえちゃんはどこ??で、頭がいっぱい。

そうしているうちに 外ではサイレンが鳴り響いて
「大津波警報」を知らせている。「高台に避難してください」と言ってる。
あまり 切迫感がない声で 避難しなきゃ!!って思えなかった。
防災無線のせいにするつもりはないが・・・。

でも我が家は海から2.5Km~3Km圏。
私は、ここから「逃げる」「避難する」という考えは はっきり言ってなかった。

おばあちゃんもバラバラに落ちた綿棒を拾い集めていたり(←完全パニック状態)
ジッチは懐中電灯やカセットコンロを茶の間のテーブルに集めていた。

二人の口からも「避難」
それはなかった。



余震がすごいなか、チャイムが鳴った。
玄関に さーねえちゃんの近所の友達が立っていた。
「お母さんと連絡がとれないし、家のタンスとか倒れてきた。近くの家の人にきいたら
誰か知ってる大人と高台に避難したほうがいいよと言われて、どうしていいかわからなくて
さーちゃんのお母さんのところにきた」
というのです。
一人で家に居て 怖かっただろうに。彼女は携帯を片手に 上着も着ていなく 小刻みに震えていた。

私はとりあえず るーくんの小学校にも迎えに行くかもまとまりつかない頭。
でも 冷静なふりをしてたんだと今は思う。
彼女を家に置いて行くこともできないし、一緒に小学校に行こうと思い、
家に書置きを残すため、メモとペンを渡して
「さーちゃんのお母さんと一緒にいます」と書かせた。その横で私は小学校のプリントを確認していた。
(今思うと 余震がひどい中 靴のままとはいえ家に上がらせ、テーブルの下に隠れながら
それをさせたのは 危険だったと思った。家も崩れず、怪我もなかったからよかったけど。)

そして メモを持って 歩いて2、3分の彼女の家に行った。
とっさに 玄関にあったさーねえちゃんのジャンパーを着させた。

家についたら なんと 家の前に彼女のお母さんが 職場の制服のまま車の前にいた。
「どこ行ってたのー?タンスの下かと思った!」と言っていた。
ちょうど グットタイミングに親子は一緒になり、このまま友人宅へ向かうと言っていたので
ジャンパーもそのまま着てていいよと言って別れた。
ほっとして、るーくんの迎えに向かうことにした。





つづく。



ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/01 04:17 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(0)


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