ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

高校受験最前線!


日曜日、お父さんが こっそりと買ってきた。
紅白キットカット(きっと勝つ)に 二人で全部にメッセージをあれこれ書いた。

縁起良く紅白のハート模様でラッピング
DSC_0050.jpg
コアラのマーチは「コアラは寝てても木から落ちない」とのことで応援グッツ(お菓子)になっていた。

担げるものなら なんでも担げってことで。

夕飯には もちろん定番のカツ。(ひれかつだけど、勝つ!)

受験前夜。

もう、わたしたちに出来ることはこんなことぐらい。
お守りも作りました。
DSC_0051.jpg

中には 造花だけど、桜の花を一つ「サクラ咲きますように」と書いた紙で包んで入れた。

それから、私なりに本人への応援の手紙も書きました。
制服には念を込めて アイロンをかけました。

夕飯のカツを食べ終わってから これらを渡そうと思っっていたんだけど
夕飯中はなんだか 本人が そわそわ、ぴりぴりしています。

私やおばあちゃんも 妙に緊張しちゃって、気が利く話でもしたらいいのに
変な話ばっかりしちゃって (;´Д`))))
なんだか タイミングが・・・どうしよか。

そうしたら そこへふらっと 
リボンをつけた箱をポンッとさーねえちゃんに渡したのがあーねえちゃん。
「さー、明日がんばってね~、一緒に(高校)行こうね!」
って。
DSC_0052.jpg



もう~、びっくり!あーねえちゃんも用意してくれてたんだ!!
空気がガラッとかわり、さーねえちゃんも すっごい嬉しそうな笑顔がほころんでます。

あーねえちゃんのお陰で 和んだので

私たちもってことで るーくんが「コアラのマーチ」を「おねえちゃん、がんばってね」と渡し、
私が「お父さんとお母さんから」とキットカットと手紙とお守りを渡したら

ここしばらくの間見てなかった満面の笑になりまして(#^.^#)

よかったー。よろこんでもらって。
リラックスできたみたいで。

おじいちゃん、おばあちゃんも「釣石神社」に行ってくれていて お守りをくれました。

家族、みんなが あなたの味方です。
何もできないけど こんな エールしか形にできないけど・・・。

みんながついてるぞー!!

がんばれ、さーねえちゃんっ。

そんな前夜(昨夜)でありました。


Read More

スポンサーサイト

ジャンル : 育児
テーマ : 中学生のママ

[ 2012/01/31 13:52 ] 子供の成長 | TB(0) | CM(2)

避難所脱出。 三日目が終えた日。

「三日目の避難所、そして脱出」 からのつづき


おじさんに「家に来るよう」誘われて その言葉に甘えてお邪魔させてもらうことになり、
中学校を後にする。
車には、頂いた毛布、持ってきた衣類、ペットボトル・・・もう、車内はぎゅうぎゅう詰めな状態だった。
さーねえちゃんが、私たちが家から持ってきたおばあちゃんの自転車で移動することを
買って出てくれたのでお願いした。

今思えばその自転車の鍵も、玄関の所にまとめて鍵を掛けていたフックボードがあったのだが 
そこから、奇跡的にひとつも落ちていなかったので自転車を無傷で動かせたのだった。

坂を下ってゆくにつれ、また 見れば見るほど ものすごい光景が目に飛び込んでくる。
折り重なる車、製紙会社の巻き取り紙、丸太・・・子供たちもびっくりしていた。

一日たっただけで、警報解除のためか?歩いている人の数はずいぶん増えていた。
道路は大通りは水は引いていたがかなりドロドロ、歩行者、自転車は やはり道路の真ん中を通行。
走っている車は本当に少なかった。

時々、コンビニが開いているのが見えた。
使えそうなものは 持っていってくださいと、お店側が開放していた。
あとで私たちが行った時には 何もなかったけど・・・。

叔父さんの家に着く。
叔父さんの家は我が家より北東にあるが、直線距離で数百メートル・・・としか離れていなかった。
同じ、大通り沿いで、小学校の学区内でもあった。
新興住宅地として作られた団地の一画にマイホームを構えた叔父さん。まだ築6年ほどの新しい家だった。

叔父さんは、私の父、ジッチとひとまわり違う 年の離れた弟。
秋田県出身の両親なのだが、石巻で唯一の親戚である。

いとこ(叔父さんの子供)は私より10才年下のお姉ちゃんと(いとこちゃん)、さらにこの当時高校卒業したてだった弟くん(いとこ君)の二人。
今回、一緒に生活を共にすることになるのは いとこ君の方です。
叔母さんは、もともと病気で長期入院しているため
家にはおらず、いとこちゃんは県外に住んでいるため 男二人世帯にお邪魔することとなった。

おじさんは 優しく迎え入れてくれた。
とりあえず 子供達を家の中に入れてから 私とお父さんは
別行動に出た。

おじさんの家に行く間にある スーパーやドラッグストアが 開いていたのだ。
近くに るーくんの通う小学校もあり、高校もそばにあったので
避難所も近いとのことでオーナーさんが 「持っていって下さい」と 開放してくれたらしい。

でも、本当のところはどうなんだろうか。
略奪だったのだろうか。
もしかしたらはじめは、誰かが勝手に 鍵を壊して勝手に商品を持ってきていたのではないのだろうか。
それが 勝手にどこからか「開放してくれた」という解釈になったのではないか。
そこらへんの詳しい所は正直、わからない。

わからないけど、申し訳ないが 私たちも中に入った。

学校に避難している方や先生方も必死におむつなどを運んでいた。
カートごと大量にいろんなものを運んでいるひとまでいた。

私とお父さんは スーパーと、ドラッグストアに手分けしてお邪魔して
とりあえずの必要になりそうな食料などを いただいてきた。

私は、ドラッグストアに入った。みんな必死に商品をかき集めていた。

ドラッグストアの床には、地震でおちたのであろう、紙おむつやティッシュペーパーなどが散乱していて
それらが 全て 水を吸っていて 店内を歩く人たちに踏み潰されて
まるで マットレスのようになっていた。

私はそれからすぐに ゴミ袋に食料を入れて自転車で家に向かった。
残念ながら 家のまわりはまだ冠水している。
ひざ下くらいだったろうか・・・
でも とりあえず 自転車をこいで向かった。

自分たちの部屋の窓からまた家に入る。

部屋の中はドロが露出しはじめていた。

じっちとおばあちゃんに 事情を説明する。
「中学校で、叔父さんに会ったの。叔父さんの家はもう大丈夫だからって、誘ってもらったから
そっちにお邪魔するね。」そう言って 持ってきた食料を少し置いた。

それから近所の人たちに声をかけた。
ご近所の人達は みな 外に出れるひとは外に出て、玄関先でウロウロしている感じだった。
私が騒がしく帰っていったので みんなでてきたのかな(;^ω^)

近所の人たちにも少しずつ食料と飲み物を置きながら 話をした。みな無事か、どうか。
二階に取り残された状態の世帯がほとんどだった。
家の前の水が引けた、小さい子がいる御宅では これから学校に避難するといった様子だった。

「家にいても 何もまわってこない(食料)、どうなってるんだろう
自衛隊の人たちは歩いているのに・・・」

そう言った話をする人もいたけれど
比較的安全な状態に位置づけされているだろう この地区では
元気な人は(無傷の人は) 自分たちでなんとかするしかないのだ。
この頃は自衛隊もなにもかも まずは「人命救助」に全力を注いでいたに違いない。

とりあえず 私たち家族だけ 先に叔父さんの家に行かせてもらい
後に じっちとおばあちゃんも 一緒に叔父さんの家にお世話になることになるのだが
このときに 「一緒に行こう」って言えなかったのだろうかと 今は思う。

じっちは別に自分の弟の家だから 気は使わないだろうが おばあちゃんが気がかりだった。
このまま二階にいても 不衛生な状況で 食料だってどうなるかわからない。この先もどうなるかわからない。
みんな一緒に居たほうがいいに決まってるのに。

ほんと、頭のなか パニックだったんだなぁ。



日が暮れると 真っ暗になるので
慌ただしく また 叔父さんの家に戻った。

またもや ズボンを汚してしまったけれど おじさんが おばさんのズボンなどを出してきて貸してくれた。
ありがたかった。家にあった濡れなかった靴をみんな出してくれて 家の中でも靴を借りて履いてすごした。

叔父さんの家は全てフローリングであった、
新しい家なので家の基礎土台が高かった、免震構造の家だった、
地域的にも 浸水が浅い方だった、などなど 好条件が重なり
家の中への浸水は数センチだった。10センチ未満だろうか。

リビングのこたつ布団が水を吸い上げてくれていたようだった。

家具や家電の倒壊もなく、ほんとうに、普通の状態だった。
ただ 停電、断水なのは変わりない。 
とりあえず 日暮れ前に 汲んできておいた水を
庭でバーベキューセットを使い、炭は少しだけ使い、雑誌やいらなくなった紙を燃やして お湯を沸かした。
夕飯に 叔父さんの家にあったカップラーメンを食べることにした。

仏壇用のろうそくで 明かりを灯し 人数分は作らずに みんなで少しづつ分けながら食べた。
その時に食べた カップヌードルミルクシーフード味(確か)とやらを あーねえちゃんとわけて食べたのだが
本当に うまくて 旨くて
温かいスープがお腹の底まで入っていくのがわかって・・・


きっと 一生忘れることができない味になるのだろうなと思う。

その晩は おじさんといとこ君が片付けてくれたいとこちゃんの部屋で
用意してくれた寝具類を適当に五人でわけて もらった毛布も足して、
久しぶりに足を伸ばして寝た。

やはり 私は眠ることはちょっとできなかったけれど 横になっただけで
本当に 開放された気持ちになったことと

近所に住んでいながらも 初めて入るいとこちゃんの部屋にいることの不思議な感覚と

寒さと 何度となくやってくる余震に なんとも言えない緊張感に包まれた晩を過ごした。





ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/01/29 04:40 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)

ちきしょう。


最近、子供達がよく話題にする言葉。

「○○ちゃんち、道路にひっかかるんだって」

「道路」とは

石巻の復興都市計画とやらで 新しくできる道路のこと。
津波被害が大きかった地域=復興都市計画の対象地域。
津波によってめちゃくちゃにされてしまった住宅街。

こるくの住む子供達の学区内。大通りを挟んで南へ行くと、この「対象地域」となる。

そこに また 大津波が来ても浸水を防ぐために
盛り土をした道路を作る計画があります。

南浜、門脇町地区は もはや 住宅は建ててはいけなくて
計画では、緑地公園になる予定。

海岸線から平行して 大きな高さのある道路を作る。

のは、いいのだけれど

その道路がはしる場所は、みんなが今現在住んでる場所なわけであり。


このへんじゃ、正式発表もない、わりと早いうちから噂は飛び交い
本当なのか、デマなのかと思っていたら
昨年冬から 対象地域ごとに住民説明会が順次行われました。

みな 複雑な思いだった。

夏休み前頃だったろうか。噂は飛び交っても、住むところがないんだもの。
避難所(学校)だっていつまでも居られない、仮設住宅は当たらない、借りれるアパートはない、
結局は形が残っている自宅がある人は 戻る人たちが多い。
戻れば、壊れた窓、トイレやお風呂は直さなくては生活が大変。
どうせなら床や壁・・・と、大工さんが空き次第工事する方も多い。

お正月。
みな、ようやく 自宅でつかの間の団欒をたのしんだと思う。

すっかりリフォームしちゃってから
「あなたの御宅、道路にひっかかりますので 退去してください」てな話ってありなんだろうか。

ま、半ば 開き直り、噂の時点で迷ったって 暮らせないから直した。って人も多い。
「道路の着工までの数年間はなんとかここで暮らせるから」って、
使い捨てリフォーム状態、みんな。


子供達は、特にるーくんは「友達が引っ越す=転校」って考えちゃうのかな。
なんだか 中学校に行ってもみんな バラバラになるんじゃないかって
考えてしまうようです。
仕方がないのだけれど、何年先になる話かもわからないし、今 そのことで悲しまなくてもいいのだけれど。

子供達なりに 「友達の家が大変だ」とは思うのでしょうね。

うちは お父さんの会社は引っかかりますが

今住んでいる家は道路にはひっかかりません。

だからこそ、子供達もそういったお友達とそういう話題になった時
どう言って接したらいいのか悩む事もあるようです。

私自身、やはり どういっていいのか 悩みます。
やりきれません。

みんな、やっと避難所生活が終わった、家を直した、とりあえず住むところ見つけて住んでても
次々と問題が降ってきて
積み重なって 山となって、
それでも 子供達の学校や日常生活は続いてゆくわけで。

ひっかからない家に住んでる私が こういうこと書いたって
きっと その人たちの本当の心の底の気持ちまではわかっていないわけで
すぐそばで見ているだけの傍観者になってるのかもしれない。

同じ被災地でも 一歩先ではこんなにも違うものなんだろうか。

同じように私も思った、何ども思った。

自分の家より数百メートル北に家があるだけで 被害がずっと軽い人、
同じく浸水しても 家財道具はセーフだった人、
使える道具や服や寝具があった人達に対して
はじめはね、「よかったね」って思ってたけど
だんだんと時間がたつにつれ、気が狂いそうになったとき

ちきしょうって思った。

それでも行政の下す罹災証明は同じ「大規模半壊」判定。
ハラワタ煮えくり返りそうになったけど。

浸水しなかった地域に住んでいる人たちなんかにゃ 恨めしくさえ思った自分もいる。


これと同じように、わたしよりひどい状況下の方々は きっとこう思ってるはず。

ちきしょうって。

ほんと、津波のバカヤローだよ。



ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/01/25 06:36 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(2)

3日目の避難所、そして脱出。

震災当日から、二晩車中泊をして 確か3日目の昼間に「大津波警報解除」の広報が流れたと思う。
ほっとした・・・という感情はあまりなく、
「これからどうしたらいいのだろうか」
そのことの方が 強かったと思う。

体育館では 「本部」たるものも本格的な感じになってきて
ステージの上には 支援物資と思われるダンボール箱が 少し置かれ始めていた。

いよいよ 避難住民達によるボランティア活動も始まりつつあった。
本部の呼び掛けもあり、校舎では「協力出来る方はこちらへ並んで下さい」など
騒がしくなっていた。色分けしたガムテープを胸に貼ったり、仕事の内容を話している姿が
あちらこちらで見られるようになった。
私たちも このままずっと中学校にいるならば なにかしなくては、そう思った。


体育館でさーねえちゃんの同級生で 子供だけでいる子がいた。他のお友達の家族と一緒に居たようだった。
お母さんは私のママ友。
そのお母さんと連絡がつかないと話していた。

そんな時 体育館で 「呼び出し」のボランティアが活動し始めた。
拡声器を持って、呼び出して欲しい人や事柄を言ってもらう。ってことらしい。
ボランティアと解ったのは、拡声器を持った男の人が胸にガムテープを貼っていたから。

どうやら、その子のお母さんか家族が 彼女の名前を呼び出したらしいのだが
その時に体育館に居なかった彼女は どうやらすれちがいになったらしいのだ。
私は心配で お節介だったけど その呼び出しのボランティアの方に
その子のお母さんの名前を呼んでもらった。

でも 応答はなく 体育館にはいないようで、じれったかった。
「名前呼ばれるの、恥ずかしー」って言ってたけれど。今はそんなこと 言ってられんのだよ。と話した。
彼女達に、あーねえちゃんが持ってきた「キットカット」をひとつづつ渡した。
「こんなことしかできないけど、ごめんね。きっとお母さんか誰かが迎えにきてくれるから
絶対に勝手に家に行ったら危ないからね。一緒にいる友達家族に甘えなさい。」
そう言うことくらいしか ほんとに できなかった。

後に、彼女はお兄ちゃんが迎えに来てくれて 家族と合流し、小学校へ移動したと聞いた。

彼女の場合は地震後に遊んでいた友達同士で中学校に避難した。お母さんと電話で話せたらしく
「学校に避難した」とは伝えられていたそう。
そしてお母さんは、「みんな家にいたから一回家に帰って来なさい」と話したそう。
でも、後にこの大津波・・・彼女は帰れなくなる。
そして家族は自宅で津波にあい、家の二階でしばらく孤立してしまったために、迎えにこれなかったのだそう。
そして彼女が伝えた「学校」も、中学校なのか近所の小学校なのかで混乱したと、後でお母さんは話していた。

私を含め、「津波」への甘い考えからくる混乱はあちこちで発生していた。
こういったすれ違いや、どこの避難所にいるのかわからなくて探し回る・・・
なかなか家族の安否がつかめない、もしくは分かっていても 
身動きがとれない状況は あちこちで見られた。職場から帰れない人たちだってたくさんいた。
我が子、家族が心配でも 目の前の職務を投げ出すわけにはいかない人。
職場やたまたま地震の時に居た場所が遠くて 自宅に戻れなかった人。
どんな 思いで過ごしたのだろう。

何日間も親と会えずにいた あーねえちゃん、さーねえちゃんのお友達は沢山いる。

私たち家族は本当に 奇跡的に一緒にいられたと思う。


そんな私たち家族にも転機が訪れる。

前にも登場した私の父方の「叔父さん」がその転機となる人だった。

お父さんに、
「津波警報も解除されたし 家に行ってみたらうちは大丈夫だったから うちへ来たらどうだ?」
と持ちかけてくれたのだった。

私はその話を聞き、「どっちでもいいよ」と答えた。
お父さんにとっては めったに会わない私の親戚の家。
気を遣うに決まっている。
私も、自分の体のことそっちのけに考えて 中学校に残るならボランティア登録してくるよ~とも話した。

でも お父さんは
「ここにいても 食べ物はないし、ゆっくり寝かせてやらないと子供達も風邪引いてしまう」
そういって決断して 叔父さんに「お願いします」と言ってきてくれたのだった。
そして なによりも 私の体を心配してくれてのことだったと思う。
私も今思えば かなりパニック状態だったと思う。自分は全く眠れない、睡眠薬もうつの薬もない、
内膜症の薬も飲んでいないので生理も来てしまった。
それなのに 人の世話を焼いてる場合ではなく・・・

叔父さんといとこは、先に家に帰って地震で散らかったものを片付けて
今はいない いとこの部屋を私たちに貸してくれるということで 14時ころには
来ていいからと言って 校庭の駐車場で別れた。

それが午前中だったと思う。中学校を出るまでのその間に 
あーねえちゃんの高校へ行ったり、日和山へ行ったり、上記の体育館でのことがあった。

私たち三人が、日和山へ行っている頃 お父さんとるーくんの二人で車にいると
車中泊組みの避難者にも物資はまわって来たそうだ。3日目の昼にしてようやく。
けれど やはり 「油揚げ」だった。
食べ物には変わりなく、ありがたいことなのだが
調理しない油揚げをそのまま 食べるのはちょっと抵抗があったけど
ありがたく受け取ることにしたお父さん。
空腹が続いているお腹には 油揚げの袋の油がギラギラして見えた。

お父さんは 好き嫌いが多いのだが、油揚げも嫌いなものの一つだった。
けど「このままでも美味しくたべられますよ」と言ってくれた方の言葉を信じて
がぶりと噛み付いたはよかったが やはり 食べられなかったようだった。

それから、校庭で
お父さんの会社の知り合いの方に会い、私たちに毛布を提供してくださった。
高台に住んでいる方で 中学校へ提供するためにいろいろと持って来ていた所
私たちの状況を見て、うちの分も別に持って来てくださったのだ。
「返さなくていいよ、古いやつで恥ずかしいけど」
そう言って毛布2枚、ハーフケット1枚を頂いた。
本当にありがたかった。

私は本部へ行って「生理用ナプキンありますか?」と訪ねた。すると「ちょっと待っててね」と
レギュラーサイズのナプキンを2枚こそっと手渡してくださった。
バックにも1枚だけあったのだが、叔父さんの家に行く前に貰っておきたかったので、これも
ほんとうに助かった。ありがたかった。
「おじさんの家に行く」そう決まると子供達はもう、はやく 「ここから脱出したい」そんな感じだった。
すると 14時ころ いとこが自転車でわざわざ呼びに来てくれた。
「片付け終わったから うちに来ていいよ~」と。

申し訳ない。

さーねえちゃんが、私たちが荷物の運搬に使うのに持ってきた自転車(おばあちゃんの)に乗って、
いざ、出発。いや脱出か。
また、坂を下って大通りへと行く。

避難して安心していられるところ・・・
それが避難所だと思っていたけれど
今回に限っては そうではなかった。

もうすでに、「学校」の面影はなく、

「本当に、自分たちの学校だよね、ここ。本当に、避難所になるなんて思いもしなかった」

そう言った さーねえちゃんの言葉が忘れられない。

みな、避難所に一度は来るが人でごった返したいたため 帰る人、違う避難所へ移る人もいた。
津波警報解除からは特に「本当に行き場所のない人たちのために」と、
悲惨な状態の自宅の2階に帰る人も多く居た。

少しでも身寄りがあって 行くところがある人は
「避難所からの避難」であった。




ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/01/23 04:36 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)

やることはやった。あとは・・・

昨日も書いたけど さーねえちゃんの受験が迫ってまいりました。

昨年12月から書類の制作やら なにやらで 大騒ぎ。
提出日前日にまで及び、あげく ほぼ寝ないで 書き上げた「推薦願い書」。

(いわゆる、自己推薦書のようなものです。)

それが 無事通過したらしたで 願書作成、各書類の用意。学校に提出。

本人の決意もさらに引き締まる。

やることは すべてやった!

よしって、ことで  あとは 神頼みに行ってまいりました。

今年のお正月は質素に、新年の初詣などは 行かなかったのですが

年明け初めての神社だったので 「合格祈願&初詣」みたいになりました;
でも、久しぶりに お父さん、私、さーねえちゃんの3人で おでかけでした。


絵馬


絵馬・・・も、もうちょっと丁寧に書いたらいいのに・・・
ま、彼女らしくね。普段の字で。神様に取り繕ってもしかたない。

行ってきた神社は このあたりでは有名な 釣石神社 という所です。
大きな岩(石)が まるで宙から釣られているかのようだからなのか、この名前。
DSC_0016.jpg

そして その岩、一度も落っこちたことがない。

これが「受験の神様」として有名になった由縁であります。

今回の大震災でも 岩は落ちなかったのです。

ただ、北上川にほど近い ここの地域は壊滅的被害を受けており
神社も 以前は住宅地の細い道を入って行かなければならなかったのに
なんにもなくなっていました。社務所も、宮司さんの御宅もきっと敷地内にあったはず。
DSC_0017.jpg

岩のすぐ下の方まで 津波は押し寄せたのだそう・・。岩の右下の看板は「津波到達地点」ってかいてありました。
いわゆる「参拝するところ」(って、境内っていうのかな?)は 階段を高く登ったところにあるので 
無事でしたが そこから見える景色も
なにもかも なくなっており 愕然としてしまいました。


この地区の復興へ使われる募金箱がありました。
お父さん、さーねえちゃんが 率先して自分の財布から募金している姿に
わたしも慌てて募金しました。


神社
この写真の中の景色は 震災前のものが何もない。
本当は手入れされた神社の敷地だったのです。周りには住宅地があり
奥に見える山合いの風景がここから見えるはずがないのです。

行く途中の
橋すらぶっこわれ 途中から仮設補強されておりました。

そして 通り道に、近くに大川小学校があります。
以前は 道路から見える学校ではなかったのに
見晴らしがよくなってしまい 道路から あの悲惨な惨劇の場となった小学校が見えました。

どうしても 素通りできなくて

帰りに 小学校へ寄り、3人で手をあわせてきました。
備えてあった鐘を鳴らし、たくさんの花束、お供え物、どこかの美術家の方が寄贈なさった
母子像があり・・・
閑散とした 学校。
泥だらけのランドセルの山の映像を思い出さずにはいられません。

お父さんの仕事仲間の女性は ここの小学校に通う末のお子さんを亡くし、
祖母、母親も 犠牲になりました。

こういうこと

書いていると 泣きそうです。

震災がなかったら この 小学校を卒業し、中学校へ通い、そして受験生になったら
同じくこの神社でお参りをしたであろうに。

私はどうしても この現実にカメラを向けることができませんでした。


こういった 現実が ごろごろころがっている環境で
私はすぐ 悲しくなってしまうのだけれど、
(前までは今ほど悲しくならなかった。感情が正常になってきたのかな。)

子供達は 強く なった気がします。

すくなくとも

命の尊さを痛いほど わかった。
自分の人生、亡くなった方の分まで頑張って生きていかなきゃって思ったそう。
だから、きっと真剣に 進路を考えたと思う。
すごく 考えたんだと思う。

だから 応援するからね、お母さんは。


さぁ、神頼みも無事に終えた!

がんばれー、受験生!
がんばれー、青春っっ!





ジャンル : 育児
テーマ : 中学生のママ

[ 2012/01/20 15:12 ] 子供の成長 | TB(0) | CM(8)

保護者説明会~!

いや~、行ってきましたよ。
さーねえちゃんの 学校に。

最近、ブログでは 震災当時パニックだった、避難所と化した記事ばかりですが
現実には 受験生の、15才の愛娘の学び舎でございます。

受験の心得、受験当日の手順、保護者同士の待ち合わせ、代表者選びなど。

別に私が受験するでもなく
本人が悩んで考えて悶えて?!出した結論に、
親の私ができることは 陰ながら応援しかないわけで。

でも、先生方の「体調管理に気を付けてあげてください」とか
「受験当日は 必ず朝ごはんを食べさせてください」とか
「お子さんたち、夜ふかししていませんか?」とか

もぉ、こっちが緊張しますってば、先生っ。

いや、先生方はものすごーく「全力で子供達の力になります!!」って感じで
親の心は救われてはいるのですがね。

そんな 先生方から

「お母さん、お父さんの笑顔で自信を持たせてやってくださいね」って。。。


こわばってないだろーか、わたしの笑顔。


Read More

ジャンル : 育児
テーマ : 中学生のママ

[ 2012/01/19 23:50 ] 子供の成長 | TB(0) | CM(0)

3月12~13日のあいまいな記憶-その2.

前回からのつづき


あーねえちゃんの学校を出てすぐに 外で偶然、担任の先生、副担任の先生と会った。
先生方は 家族が心配だろうに、学校に残らざるえなかった。
車が助かっても、担任の先生は遠方から通勤なので
道路が寸断されて 帰宅できないでいたし、
生徒たちの安否確認に奮闘していたようだった。
そして、いつまた 避難所として指定されるかわからないので 情報収集もしているようだった。

副担任の先生は独身だけど、住んでいたアパートが影も形もないと話していた。
「俺は独り身なんで 大丈夫っす!」なんて言っていたけど、
その時、「でも実家とかは大丈夫なんですか」と声をかける余裕は私にはなかった。

少し歩くと 今度はあーねえちゃんの同級生と、お母さんに出会った。
初めて会ったけど 何かと会話が尽きなかった。

あーねえちゃんを見て、「なんで下、ズボン履けているの??」と言われた。

「親戚に借りれたんです」
そう言うと同時に、自分たちが恵まれていることに 気がつく。

制服の彼女は本当に寒そうで なんとかしてあげたかった。。。

避難所では 衣類が手に入るような気配もなく、全身ずぶ濡れで避難してきた人はどうしたんだろう
と思う・・。今さらながら。
もちろん、高台に住む住民の方々の支援もあり、なんとか当分はそれでしのいでいたかと思います。

実際に、私たちもパンツや靴下を貸してもらったり、後に お父さんの会社の顔見知りの方から
毛布も寄付していただきました。
私たちの様に 御宅直撃訪問した人も結構いたようですが、
自主的に近くの学校に物資を提供してくださった方々がたくさん居たそうです。

その時は ただただ、ありがたかった・・・の一言です。





そうこうして歩いているうちに


石巻の市街地と北上川河口 南浜町方面を一望できる日和山へたどり着く。

(しつこいようだけれど、この日和山へ行ったことも、2日目の昼間だったのか3日目の昼間だったのか
あいまいで、家族に聞いてもみんな はっきり覚えていない・・・。)


でも、そこでみた景色だけは 鮮明に
いまでも瞼に焼き付いて離れない。

南浜町、門脇町方面は 薄くなった煙の間から 見えた景色は
焼け焦げた屋根 車 が散乱し 
家家は みな なぎ倒されていた。


かろうじて建っている海の方に見える2階建てのアパートは
全ての窓やドアにガレキが入りこんでいて
向こう側が見えてしまうほど 空洞になっている建物もいくつもあった。

大きく立派な 建てたばかりの家が 数件残ってはいるが 2階の窓ガラスなどなく、
カーテンが なびいているのが見えた。

河口の方に目をやると 中瀬にあったはずの建物や公園は全てなくなっていた。
石ノ森漫画館だけが ポツン と残っていた。

その中瀬に架かる湊町とをつなぐ橋には
無数のガレキが洗濯物のようにぶらさがり
船やヨットが無数に乗っかっていた。

今、思い出すと「恐ろしい」「この世の終わりのようだ」とか思うこともあるけれど
でも、まだ信じられていない部分もあって・・・

その時はもちろん 実感などわくわけもなく
ただ 三人で「うわー・・・」「すごいね・・・」「なんだこりゃ・・・」
と、呆然と見ていることしかできなかった。

そして、なぜか、日本全体がこういうことになっているのか?と思っていた。
この時 テレビを見ている人がいた、水道の水が出て使っている人がいた、
着替えを持っているひとが居た、布団で寝ている人がいたことなんて 

夢にも思わなかった。
本当に 頭がパニックだった。のだと、今はわかる。



P1000303.jpg

P1000304.jpg



この2枚は門脇、南浜町です。すぐ近くの会社を心配して おじいちゃんが15日に足を運び、撮った写真です。

ここに載せるか迷ったけれど ・・・載せることにした。

これが 現実なんだ。と自分に言い聞かせるために。




今はだいぶ片付き、閑散となった。これも 自衛隊、ボランティアの方々のお陰です。
ついこないだの紅白歌合戦では 長渕もこの土地にある小学校校庭から唄ってた。




でも、こんなにも 悲惨な状態だったんです。

メディアやネットで、もうみんなも分かってるし 散々見てきているだろうけれど
あえて ここに載せます。

これが 現実だったんだと 知ってもらうために。


何人もの人々が 友人達が、ここで家を、生活を、当たり前の日常を、思い出を、

そして 大切な人を奪われてしまったことを

私自身の胸に刻んで、その人たちの分まで懸命に生きるために。







ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/01/15 03:34 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(4)

ガレキの行方。

昨日 新聞の小さく載っていた記事だったけれど
ちょっと・・気になったことがありました。

石巻のガレキではないけれど、同じく津波で壊滅的被害を受けた街のガレキの処理を
東海地方の県で、一部受け入れることになっていたようなのだが
そこの住民グループから 「受け入れ反対」との声が上がり
署名もあつまり、それを受理されたとのニュースでした。

具体的にこれからどうなるのかは わからないけれど、
そういったことがあれば 絶対的に時間はかかる。


きっと だれだって 自分の街に環境の悪いことは率先してしたくはない。

でも どうやったって この大量の東北のガレキの量は
各自治体で自己処理していたら
何十年、いや 何百年分もの量で、いつまでかかるのか果てしない。

石巻は中心部はだいぶ片付きましたが、ただ、市が所有する少ない土地に
ガレキ置き場を作って、そこに集めただけ。
そしてようやく集められたガレキを ようやく選別作業等にとりかかった所。

ましてや、まだまだ 解体しなければならない建物や家屋は沢山あります。
それだって ぜんぜん進んでいません。
(こるくの家のおとなりさんも、昨日全て解体が終了しました)

ちょっと過疎部にそれると 更に輪をかけて まだまだ 片付けなんぞ終わっていません。
そして、漁師さんたちは操業を開始しても魚よりも
底引き網にかかるガレキの処理・・・。


公園は全て仮設住宅。ちょっと広い土地はガレキ置き場。
海浜公園はすべて ガレキ置き場。
埠頭の地元会社が貸し出した土地には流出した廃車の山。

壊滅的被害を受けて使えなくなった 我母校の市立高校の校庭もガレキ置き場。
現在市内の子供達が通う高校のすぐそばの市有地もガレキ置き場。
被災者感情、環境うんぬん言ってられないのが、被災地の現状。


すべて 受け入れてもらえなくてもいい。

みんな 「心は一つ、絆、被災地のために・・・」うんぬん語るなら

こういった 汚れ仕事?も ほんの少しでいいから手伝って欲しいと切に願います。
みんなの街にだって、震災ゴミはなくても 普通のゴミはあるでしょう?


実際に 女川町のガレキを東京で引き受けてくれた時の 搬送されるまでの検査たるや
ものすごい気の使い様でした。
放射線量も ちくいち測って コンテナ車両に運ばれてゆくガレキ。

そりゃ、自分たちの土地のゴミをよそ様の自治体で処理していただくのだから
そういった作業だって そうとうのエネルギーを使ってるのだろうと思う。



自分が逆の立場だったら 「反対」の署名をするのだろうか。
ちょっと柄にもなく こんな真面目なことを考えてしまいました。

もちろん、協力してくださっている自治体もあるのは わかっています。


でも、署名運動・・・

うーん。

悲しいかな、だれも責めることはできないのですよね。





ジャンル : 日記
テーマ : みんなに知って貰いたい事

[ 2012/01/14 01:31 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(2)

3月12~13日のあいまいな記憶。

二日目の夜も全く眠れなかった。
あーねえちゃんが合流したのはいいものの、5人での車中は狭く、体も痛かった。
でも、一日目よりはコートや毛布を掛けれたので 少しはよかった。
ただ ガソリン節約のため 極力エンジンはかけず、暖房も控えた。
るーくんは泣きやんで、少しだけ落ち着いて眠った。

夜中に、隣りの中学校との境目にある土手の所で焚き火をしている男性二人がいた。
中学校の校舎から 先生ではなかったが、女性が出てきて
ものすごい剣幕で叱っていた。
「火事になったらどうするんですか!水もないのにどうやって消火するんですか!」
久々に いい大人が怒られている姿を見たが、この人たちも きっと
寒くて寒くて仕方がなく 焚き火をしたのだろう。

(・・・もしかすると、この出来事は初日の晩だったかもしれない。
記憶があいまいになってきた。
でも、思い出したことは どんなことでも書いておきたいので
小さいことでも 前後しても 書きます。)

夜が明けてから、また いい天気だった。
体育館に行ってみると 体育館に入る手前の階段で過ごしているおばさんが、
ずっと 階段のモップかけをしていた。
そういえば 初日からやっていた気がする。

思わず「ご苦労さまです」と声をかけたら 
「あなた、お願いがあるの。ここ、みんな土足で上がってくるのよ!階段で寝ている人もいるのに
泥だらけで 不衛生でしょ? だから 靴を脱いで上がって来てくれって
入口に書いてきてくれない?」
そういうのだ。

私は、思わず「わかりました」と言ってしまい、職員室に行って言う事は思いつかなかったので
ホワイトボードの所に行き、数枚の紙に(A4サイズの紙の4等分だったと思う)
「土足厳禁」とマジックで書き、セロハンテープを手に数枚くっつけて 体育館の入口から階段の登り口
踊り場と、数枚貼っていった。

その土足厳禁の紙を書いていると、また 何かしらの関係者とおもわれるのか、
「トイレはどこですか?」「職員室はどこですか?」などと聞かれ、
知っているものは 教えるので、「あちらです」と教えていると
ほかの人にもなんだかんだ質問をされたり なかなか 作業が進まなかった。

私は顔に「この中学の父兄です」とも書いて歩いてはいなかったけれど 誰しもが
不安で、行き交う人に声をかけて確認して行動していたのかな・・・と思います。
みんなが家族と一緒とは限らず、たった一人で避難している人もいるわけですから。
後日、ママさん友達で やはり中学校に居た方も、やはり知らない人に声をかけられたそうです。

私の貼った「土足厳禁」が効き目があったかどうかは分からないけれど
モップをかけていたおばさんには 一応報告をし、お礼を言われた。
こんなことしかできないけれど・・と思った。
これ(土足厳禁を勝手に決めて張り出したこと)が正しいことだったのか あとで 心配になったけれど
ずっとあとになって知ったことでは 薬剤師の方々が土足は避けてと避難所に指導を呼びかけていたそうで
「ああ、よかったのかな?」と思った。


そらは、南を向けば まだ 煙・・もや・・のようなものがおおっていた。

中学校のすぐ近く、目の前に浄水場がある。そこで給水をしているという話が飛び込んできた。
やった、水が飲める。。。けれど 給水の水を何に入れればいいのか。
とりあえず 車中にあった あと一口を我慢して残しておいた500mlペットボトルのジュースなどを二つカラにしていざ、並ぶことに。
お父さんが行ってくれたが 早めに並べたけれど かなり待たされ、頑張ってくれた。
蛇口が一つしかないらしく 一人一人に時間が係るとのことだった。
坂のずっと下の方まで人の列はつながっていた。

そこでも 前後に並んでいたおばさん方に声をかけられて 話をしていたそう。
みんな、知らない人でも 状況は同じ。
つい 話しかけて気を紛らわしていたのだろうな。

(この、浄水場の給水がはじまったのが 2日目だったのか、3日目だったのかも
記憶があいまいである)

天気がいいので 昼間は車の中が暑いくらい日差しが入った。
それで すこしは眠気が襲ったのでちょっぴり寝たけれど なんだか寝てられなかった。
濡れたGパンや靴下を車の天井にあげて 乾かした。
それをあざ笑うかの様に 上空をヘリコプターが飛んでいた。

そんな時、偶然会った叔父さんが 車に来てくれた。
なんと、私のいとこのズボンを持ってきてくれたのだ。
妹のような存在のいとこは 今、石巻を離れているのだが 2階の部屋に服をいくつか残してあり
それを 一度家に戻ったおじさんが 持ってきてくれたのだ。

これは ほんとうにありがたかった。

あーねえちゃんが制服の短いスカートでいるのを 見て 心配してくれて持ってきてくれたのだった。
さっそく あーねえちゃんは制服の下にGパンを履いた。

つくづく、この着替えのありがたみは 一生忘れられない。


それから 「冷蔵庫から持ってきた」といい、1.5Lのペットボトルの「DAKARA」もくれた。
「封は開けてあるけど 口はつけてないから」と。半分以上入っていた。まだ冷たかった。

その時、叔父さんの家は我が家よりも浸水がマシだったという事が全く飲み込めず、
私の頭の中は我が家のひっくり返った家の中しか思い浮かばなかったので
「叔父さんはどうやって このジュースをもってきたんだ?!」と不思議でならなかった。

↓ちなみに我が家の冷蔵庫。 地震じゃ倒れなかったのに。
P1000287.jpg

↓そして台所。 木製の重たい椅子は、浮力でシンクの上に上がって、
食器棚はテーブルとカラーボックスの下へ潜り込んでいる。炊飯器、レンジ等は全てヘドロのなかへ。
P1000280.jpg

このころ おじいちゃんたちはここから食べれそうな物を拾って食べていました。

叔父さんに感謝し 大津波警報はいつ解除されるのだろうと話していた頃

あーねえちゃんが、自分の体育用のスニーカーが学校にあること、それから部室にお菓子があることを
思い出し、それを取りに行くことにした。
ローファーのままでは 足も疲れてしまいそうだったし、
もう、校庭がかなりぐちゃぐちゃになってきていたので 替えの靴があったほうがいいと思ったからだ。

さーねえちゃんと、わたしと三人で 高校がある山の方へ向かった。
高校の前には「ここは避難所になっていません」と張り紙があった。
なんとなく 煙の臭いがすぐそこまでしている感じがする。

あーねえちゃんだけ校舎に入った。待っているあいだ、外から窓越しに校舎内を覗くと
購買の自動販売機がずれていたり ロッカーが斜めに倒れていたり 蛍光灯がぶら下がっていたり

津波の被害がなくて本当によかったけれど 地震の影響は少なからずあるのだなぁと思った。

あーねえちゃんが、靴と一緒に「キットカット」のファミリーパックを持ってきた!
これで しばらくはしのげると思った。
それを靴入れにしまいこみ、もう少し山を登って、街の様子を見てみることにした。


つづく

ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/01/08 00:01 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(0)

新しい年に


新年になり、はやくも一週間経とうとしています。

あわわ・・・なにもしないうちに もはや 一週間です。

がんばれー自分。

子供たちは みな元気に5日に始業式を向かえました。
震災の影響で授業日数が足りないので 夏休みも短かったけど
冬休みも短いです。

ただ、高校は例年通りに10日からスタートなのですが あーねえちゃんは部活があるので
3日から出校しておりました。

数少ない休みは全て遊び回り とうとう 疲れをおこしたのか
昨日 アンサンブルコンテストのリハーサルに仙台に行っていたのですが
途中で具合が悪くなり帰宅してきました(-_-;)
熱が38度4・・・おいおい、インフルエンザじゃないよねぇ・・
さっき 計った時は けっこう引けていたのですが・・・・
もうすぐ受験を控える さーねえちゃんに うつさないように 頑張ってはやく治ってくれ~

という 私も なんだか 調子がいまいち。
みんなで 新年そうそう 体調わるくしてられないので

体調管理 頑張らなきゃね。


今年は

るーくんが年男です。
よく、年男、年女っていうけど
なにかいいことあるのかしら?

なんか、縁起がいい感じはするけれど。

あんなに小さかったのに。もう5年生の三学期だなんて・・・。
最高学年に向かって がんばれーるーくん!
でも、なんだか さみしいような(笑)

さーねえちゃんは いよいよ 泣いても笑っても高校受験です。
2回目ですが 何度目でも 嫌なもんですなぁ~・・。嫌?とはちがうか。

多少、余裕はできましたけど、やはり その子それぞれのペースに振り回されるというか
なんていうか。決まるまでが長かった・・・

私が気をもんでも仕方ないのですがね。

希望の進路に進めるように 祈るしかありません!
がんばれ!さーねえちゃん。


あーねえちゃんは 次なる進路にむけて 気合を入れなければならない年の始まりです。
昨年終わりの成績表に「中だるみはもうおしまい!ひとつひとつを丁寧に」と
きびし~い一言を担任の先生から いただきました。

ほんと、もう たるまなくていいから 頑張れ、あーねえちゃん。
行きたい進路があるのなら それを応援したいから。
あえて 厳しく接することもあるかもしれないけれど・・・。


こうして 三人の子供達のことを またここで書いている幸せをかみしめながら

今年も マイペースに 日常のことや震災のことを書いていこうと
思っています。

こんなこるくですが ことしも どうぞ よろしくお願いいたします。


一番がんばらなくちゃいけないのは こるくだな。
自分との戦いに勝つ!
それが今年の目標~?!




ジャンル : 日記
テーマ : なんとなく書きたいこと。。

[ 2012/01/07 06:25 ] 日記 | TB(0) | CM(0)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。