ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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震災メモから 電気の事とか。


前回 アップした、自分のメモを見て
改めて「これは自分のことだったのか」と思う。
今だ 自分のことじゃないような 信じられない感覚があります。

メモから見ると、当たり前のように その時は「学校が休み」でした。
学校からなんの連絡もなくただ休みになっている状況。
避難所の運営で先生方はてんてこまいだったとおもわれます。

でも、その学校から 初めて連絡が入ったのが10日目だった。
しかも、緊急連絡用のメール配信だった。
小学校は何年も前から、このメール配信システムを導入していたが
中学校は、導入からたしかまだ日が浅かった。
やっといてよかった・・・!じゃなかったら、各家庭で連絡網なんて回せないし(てか、みんな家が流されなくても電話回線も壊れてしまってます)どうやって連絡をとったのかと思う。
阪神大震災の時は どうしたのだろう。
こういうこと一つでも 全てのタイミングに驚いてしまう。

まだ 停電だったのに 携帯の充電が出来ていない人もいただろに。
携帯電話をダメにしてしまった人も沢山いただろうに。
でも、学校側は これしか 手段がなく
「メールで申し訳ございません。」「周囲の該当する方々にもお知らせください」という文面もあった。

我が家は 初めの私の携帯充電以外は、兄が持ってきてくれた「手回し充電器」を利用して行なった。
ずっと 子供達やお父さんが交代でぐるぐるとハンドルを回し続けた。
これって、すっかり充電が切れてしまったものに関してはかなり時間がかかります。
でも、相当助かりましたし 確実な代物です。


電気が来たのは この 2日後だった。
同じ石巻でも、中学校のあった高台のほうは 復旧が早かった。
たぶん メールが来たときは 学校には電気がきていたのかな。

おじさんの家の窓から 高台のほうが明るく見えたのを覚えている。
そのあと 一日づつ 明かりが増えていき、ようやく おじさんの家にも明かりが灯る。

それは この日の昼間に 電力会社の方が一軒一軒 回って ブレーカーを確認してまわり
危険がないか、漏電箇所がないか確認してからの「通電」だった。
おじさんの家のまわりは 被害が少なかったので
電柱も立っているし、各家庭もさほど配線もダメになっている様子はなかった。

そうそう余談ですが。
電気が来るまえに おじさん宅のお隣の家で
発電機を使用していた。知り合いのつてで借りてきたのだそう。
お隣の家には 我が家(おじさん宅)の9人をはるかに超える人数が 同居しているようだった。
家主の家族、その方の兄弟家族、奥様の兄弟家族、親やおじ、おば・・・と言っていた気がします。
な、何十人?!
向かいの御宅にも かなり人の数が見えました。
みなさん、この 安全地帯に身を寄せている様子でした。



我が家は、この段階では まだまだ電気どころではなく、後に電力会社さんに来てもらったが
残念ながら 電気が来ても家の中の配線がやられ
2階の一箇所となぜか一階の洗面所のプラグだけ使えた。
照明は2階のひと部屋だけ点いた。
まったくもって 津波被害とは 不思議なコトばかり。


結局のところ 12日間 電気の無い暮らしを体験したのですが
今思うと たった それだけの間だったのか?!と感じます。

すごーく とんでもなく 長い間、暗闇にほうむられ
寒く 音も無く さみしいような、そんな時間だった。

でも 慣れてくると ろうそくも悪くない。
TVがなくても みんなでおしゃべりしたり。
窓から入ってくる光光とした月明かり。
日があるうちに行動して 暗くなったら活動終わり、という生活。

悪くない といいつつも 現実はそんなにロマンティックなものばかりではなく・・・。

だから とても長く感じたのだろうか。
家の片付けに追われ、一日一日はあっという間だったのに。

それとも あまりに 電気のある生活に慣れすぎてしまっているせい?


電気がなくて 困ったこと。

夜、明かりが無い(本当に真っ暗)、携帯の充電ができない、電気ストーブ、ファンヒーター、こたつが使えない、炊飯器が使えない、IHや湯沸しポットはもちろんだめ。冷蔵庫はただの収納庫。。。
なによりも、洗濯機が使えない!!(水もダメだったからどうしようもないけど)

あげれば きりがないね。
これだけ、当たり前に電気の力に世話になっていることに 今はありがたみを感じます。




今でも 夜空をみると あの真っ暗闇でみた 星空を思い出す。
手が届きそうなほどのたくさんの星たち。
綺麗だけど 不気味だった。
 
夜空は なんだか 胸が 締め付けられる。



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テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/02/29 05:58 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)

震災メモから。

前回は約一週間目あたりの話でした。
そのあとは いつ、何があったとはっきりと正確にはわからない。
わずかな記憶と、携帯電話のメモを頼りに書きます。


たしか、一週間を過ぎたころ TOYOTAに働く いとこと連絡がとれて、マイカーの無事がわかった!
修理と車検に出していた車は 津波被害にあっていなかった。 
車屋さんに 置いておくといたずらされるからと言われ
支払い前に 先に車だけ交換してくる。(ガソリン7分目!) 修理箇所も直し終わっていた。
たまたま 浸水をまぬがれた内陸部に板金屋さんやTOYOTAがあったのが幸いした。

そして 10日目あたりから 全国の親戚が支援物資を送ってくれる日が続いた。
クロネコヤマトが センター止まりで荷物を扱ってくれていた。
荷物が届いているという 電話が配送センターから叔父さんの家に入った。
避難先となっているおじさんの家の住所や電話番号は 親戚中に回ったようだった。

両親はそれぞれ5人兄弟で、みな、別々の県に住んでいたために
連絡を取り合って 主に、食料や衛生用品、様々なものを送っていただいた。

よく電話で「何が欲しい?」ときかれたが はっきり言って よくわからなかった。
とりあえずの究極のもの、ライトやラジオ、ストーブ、カセットコンロなどが手に入ったので
もう十分だと思っていた。
「自分が今 何に困っている」 「これが欲しい」と口から出てこなかった。
遠慮が先にたってしまうことと、
困っていることは沢山あるくせに 聞かれた時に 答えられない 思考回路。
頭、口、も~みんなパニック・・・。
欲しいものも、冷静になれば いろいろあるのに 出てこなかった。
でも、みなさんが 心をこめて送ってくださったものは みな 必要なものであり、本当に助かった。

そうして自分たち家族が「着のみ、着のまま」なんだと実感した瞬間でもあった。




以下、携帯電話のメールの受信歴、スケジュールの書き込みより。

3月20日 初めて中学校からのメール 3年生、高校合格発表についてだった
3月21日 中学校から臨時休業期間延長についてのメール
3月21日 ダンナ実家に行く。お風呂場無事なり。 一家で髪だけ洗わせてもらう。
     大量の水を汲んできて、でかい外にあるガスコンロがあったのでそれでお湯を沸かしてくれた。
     お風呂場に発砲スチロールの入れ物を置き、そこにお湯をためて、
     オケで汲み使う方法をあみ出していた。一人ずつ使わせてもらった。
     そのたびに義父がお湯を足し入れてくれた。
     蛇田は電気きていたので ドライヤーも使えた。
     義母さんのお姉さん、犬とインコ連れて避難してきていた。

3月22日 電気きたー!嬉しくて泣きそうだった。世の中明るかった。
     IH、どうやって使っていいか忘れた、
    TVの音、なつかしい。変な感覚。

    門脇町から お祖母さんとお孫さんが奇跡的に助かったニュースを聞いた。
    助かった男の子はあーねえちゃんの中学の同級生だった。あーねえちゃん、喜んでいた。


3月23日 自衛隊のテント風呂に行く。震災後初めてお風呂に入る。親切にしてもらった。
     バスタオルを提供してもらえた。シャンプーやリンス、ボディソープ、置いてあった。
     簡易シャワーあり。一人15~20分を目安にと言われる。
     浴槽(ビニールシートのプールみたいだった)アカだらけ!
     髪洗ったけど 乾かせない。寒かった。
     けど 気持ちよかった!

    中学校からメール 24日に避難している生徒だけで修了式を簡単に行う、1000人程避難中とのこと

3月24日 小学校からメール 卒業式を30日に行うとのこと在校生の出席はなしで行うとのこと。
3月26日 中学校からのメール 3月末で移動する先生方の表記。離任式なし。
     避難者約900名。
     こんなときに人事異動?!
3月28日 17時35分 水が出る、おじさん宅で初お風呂。
     がんばって洗ったけど、やはり風呂釜内部にサビあり?
     お湯が赤かった。
     9人での共同生活。9番目に入るお風呂。
3月28日 中学校から 在籍する予定生徒確認の連絡。新2,3年生の在籍確認のため、
     学校に電話下さいとのメール。避難者867名とのこと
3月29日、30日、4月4日  中学校からメール。卒業生=新高校生に対する連絡事項。
             入学準備物のことなど。たいへんだ・・・
3月30日 小学校から人事異動連絡メール・・・だから なんで異動ですか?!
     慣れた先生方ばかり。
   親子でショック。
4月6日 小学校からメール、修了式とお別れの式を行うとのこと。 
    日程は4月14日。震災後初めて正式な登校。
    校舎は避難所のため 直接体育館に。終わり次第 個人の私物を教室等に取りに行くとのこと。
   ランドセル被災してなくなった人は先生に知らせてとのこと。




つづく・・・。

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テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/02/27 04:50 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)

 ~1週間。みんなの助け。

連絡がとれてからは、
千葉に住む兄が なんとかして 石巻入りするべく 対策を練っていたようでした。

しかし、ラジオでの「放射能」に対する懸念の声が凄まじかった。

そして
関東圏の人は もう東北に入らないほうがいいというデマが流れた。

その話を聞いたおじさんに言われるがまま
私は来ないほうがいいと兄に伝えた。
「大丈夫だよ、女川は大丈夫なんだよ?!」と兄は必死に伝えようとしてくれていた。
結局 私が 強く拒んだため、兄は 一晩 足止めくらった。

さまざまなデマに翻弄されていた 私たち。

放射能汚染はもう 東北全体がやられて 日本から孤立している

なんて、すごいスケールの話から、地元の どこどこの店は強奪にあった、レジ、ATMがやられた、
ガソリン、灯油を抜かれるから 気をつけろ(これは本当だったけど)

もう、どこの橋も決壊して 川を挟んだ街には行けないとか
家をなくした人や、悪いやからが、人がいない家に強盗に入っている、
行き場を失った○国人が、食べ物やお金を求めて徘徊し、抵抗すると刺されるから気をつけろ・・・
女の人は もし、何かあったら無抵抗が命を守るとか・・・

それは それは 恐ろしいことばかり。


結局、兄は 妹のわけわからない情報は無視し、自己判断で17日に石巻にきてくれました。
新幹線も止まった状態。どういった経由で来たのかも 今だによくわからない。

飛行機で山形経由で 宮城県に入り・・・?だった気がする。
仙台からタクシーで来たことだけは
確実に知っていることですが。

この日のメモ参考。
3月17日
    兄 仙台からタクシーに乗っておじさん宅に来た。 
    LDEライト、手回しラジオ、携帯充電器
    ウエッティ、ギャッツビー顔拭き用、500mペットボトル水数本、
    山形で偶然おぎにりを売りに行く人に会い、
    全部買えたからと、買い占めてたくさん持ってきてくれた。

    リュックから 次々と出してくれて ドラえもんみたいだった。

    待たせてあったタクシーに乗って 家に行った。私も一緒にいこうと言われる。
    兄の靴が、真っ白いスニーカーだった。なんて白いんだ。
    この靴で このヘドロだらけの所に来てもらって申し訳ない、と思った。
    わたしの靴が汚くて タクシーの運転手さんに申し訳なかった。
    もはや、汚いのは靴だけじゃないけど。助手席に乗ってナビ。
    メーターがもう、万単位になっていたと思う。
    
    5分で家に着く。
    家の前の水は やっと ほとんど引けていた。

16日の写真↓
P1000352.jpg


 ↓窓がわのカーテンに跡が。赤い矢印の所まで 浸水した。
だんだん、泥が浮き出てきはじめている
P1000329.jpg
    
    タクシーはそのまま 家の前で待っていてもらった。

    家に入ると、ヘドロの臭いが鼻をつく。

    久しぶりに家族4人だけになった。兄が来てくれて 興奮したのか
    無我夢中で狂った様に兄に携帯がつながらないと話す母。
    「秋田のおばさんと連絡とれたよ」と話すと、なぜ 私の携帯だけがが使えるのかと責められる。
    もう わけがわからない。
    父が外に出てるその間にどこかに自分だけ避難する準備をしているようだ、
    そんなことまで言った。
    母を見て、これは もう 一緒に居ないとダメだと思った。


↓この写真は23日のものだが
一階は この状態のまま、震災後一週間目もこんな状態だった。

P1000335.jpg

P1000334.jpg

    「不衛生で病気になってしまうよ」と    
    必死に説得するも、パニックな様子。母娘、二人で抱き合って泣いた。
    「今はみんなが被災者なんだよ、家族一緒にいなきゃだめだよ!」
    母をぎゅーっと強く抱きしめた。
    兄が自分の携帯から、母の姉に電話してくれて会話が出来た。
    少し それで落ち着いたようだった。
    兄が持ってきた水、おぎにりを母と一緒に食べた。
    まだ温かく おいしくて涙が出た。
    それでも母は 私の手が ひび割れして赤くなっているのを心配していた。
    

    兄、家の中の写真をいっぱい撮っていた。皆に口で説明できそうもないから、と。
    タクシーにまた乗って おじさんの家に私を送ってくれた。
    兄はそのまま おぎにりなどをたくさん持って仙台に向かった。
    仙台も大変だと思う。みな無事だろうか。義姉さん、心配だろうな。
   (義姉の実家が仙台にある。沿岸部ではないがライフライン全滅)


    午後から じっち、おじさん宅に来る。
    「おれたちも明日、こっちにきていいか?」と頼みにきた。おじさんは「もちろん」と返事。
    よかった、みんな 一緒に居れる。
 
おばあちゃんは、本当に人付き合いが苦手で、気を使う性格で
あまり 外との交流をもたないタイプだったので
いくら義弟とはいえ おじさんの家にお世話になるのが申し訳ない気持ち、
気を使うから行きたくないという気持ちがあったのだと思う。
そこの心を溶かすことが まわりで一番心配したことだったが
兄が来てくれたことや、私と話したこと、秋田のおばさんが来てくれることがきっかけになった。
本人は「食糧がそこをついた」と言っていたけれど。それも事実だけどね。
    


3月18日 秋田のおばさん、おじさんが来てくれた日。午前中に 両親のぶんの部屋をスタンバイした。
    おじさんがひとつはソファーをベットにしてくれた。ひとつは自分の分をあけてくれた。
    おじさんはおばさんのベットに布団を移し、おじさんの寝室も移動した。
    そして 車で両親を迎えに行ってくれた。
    天気は晴れていた。
    両親の荷物と、布団一式をはじめに運んだ。
    おばあちゃんは つとめて明るくしていた。
    子供たちと再開して お互いに胸をなでおろした様子だった。
    
    秋田のおばさん達がお昼頃到着する。
    あのコンパクトカーから どれだけ出てくるの?!ってくらい 
    たくさんの支援物資を積んできてくれた。
    石油ストーブに 手回し充電式ラジオ、乾電池 防寒着 女性男性下着たくさん、
    非常用毛布、カセットコンロ、ボンベ、エアーポット!
    コメ30kgにみそ、野菜やそのほか食材の数々。


秋田のおばさんは きっと、連絡のとれた翌日から 買い物に走り回ってくれたにちがいない。
旦那さんと二人で たくさんの支援物資をコンパクトカーに押し込んではるばる石巻まで来てくれた。

来てくれたとき、泣いていた。おばあちゃんとも泣きながら抱き合ってた。
みんな、よく 一緒に居てくれた、よかったよかった!と私や子供たちの頭をなでて言った。
「避難所さ ひとりひとり、探しまわらればならねど思った。どうもね、みんな一緒でまず、いがった!」

秋田も停電があったらしいが、その後回復してからTV映像を見て 石巻と連絡がつかない状況に、
覚悟したと言っていた。

ちょうど、連絡がとれてから 秋田のおばさんの娘さんが、ネットでじっちの名前が、
安否確認?捜索願?がでていたのを見つけてくれて、無事に生きていて、
避難していることを 伝えてくれたそうだ。(そんなサイト、あったんだね)
会社の東京の本社の人だったらしい。

なんだか、すごいことになってんだな・・・って実感がわいた。

お昼に合わせて おばさん達が持ってきてくれた 食材とカセットコンロで
大きな鍋になめこ汁を作った。おばあちゃんと一緒に作った。それがまた嬉しかった。

おばさんが たくさんおぎにりを握ってきてくれたので それと
途中のインターでGETしたパンなども食べた。つけものも、切ってタッパーに入れてきてくれた。

発砲スチロールでできた 使い捨てどんぶりに 11人分 味噌汁をよそって みんなで食べた。

あったかかった。本当にあったかかった。
はじめて まともにごはんを食べた気がした。
人間は、こういうもの 食べなきゃだめなんだなぁって思った。

今までも おじさんの家でも何かとごちそうにはなっていたけれど
本当は 食べたいくらい 食べていなかった。
飲み物も なるべく控えていた。
あまり トイレに行きたくなかったこと、気を張っていたせいか おなかが空かなかったこと、
先が見えないので 食材を少しずつしか出さなかったので
なるべくおじさんたち、子供たち優先にしたこと。


このときは 本当に 自分の本能のまま 食べた。
でも、みんなもそんな感じだった。いつも以上にたくさん食べた。

うまかった。。。

家族みんなが揃ったことも 大きな大きな 安心に変わった。


みんなで おしゃべりしながらお昼を食べて お茶を飲んで
あっという間に15時ころになった。

おばさん達は暗くならないうちにと、すぐ 帰路についた。
みんなで大きく手を振って 別れた。


ありがとう、秋田のおばちゃん、おじちゃん。
それから お兄ちゃん。
そして、おじさん、いとこくん。

ありがとう。





ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/02/22 06:00 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(6)

ありがとうの大絶叫♪


まじで やばいよね。

「うそー!しんじられなーい!!嬉しい!ありがとうだー、マジで!!」

こるく、一人で大騒ぎしました。大絶叫です。



もう、お気づきの方もいるかもしれませんが
先日の記事

「ありがとうの大合奏」   

 「ありがとうの大合奏-その2。」

に、とんでもないお方から コメントが入っていました!

絆project
http://www.hmj.co.jp/kizuna/

こちらは、以前の記事で紹介した
「ありがとうの大合奏」を企画運営された NPO法人のサイトです。

ここの、一番えらい人 理事長さんが、こるくのブログのコメント欄に記入してらっしゃるでは
ありませんか。

なぜ?!
ここに!!迷子?!(んなわけない)


世の中 どんなことがあるか わからないものですねぇ。。
まるで、サンタクロースから手紙を貰ったようです!夢みたい♥

あーねえちゃんにも話したら、またまた驚き! 曽根様のFacebookに書いてあった いろいろな経緯を話したら、
改めてイベントに参加出来たことに本当に喜んでいました。

たまたま 自分の娘が出るイベントだからと 勝手に宣伝書いて
勝手にリンク貼ってしまって 

勝手に「この場をお借りしてお礼を申し上げます」なんて言っていたら

直接 お礼を言えることになるなんて!!

本当に、嬉しい。

お礼を言いたい人に言えるって、幸せなことなんですね。

初めて解ったような気がします。

インターネットって、すごい!

ブログ、やっててよかったです。。。




曽根理事長のFacebookを見る所によると、


皆様の 応援によって実現した大合奏だったんだと、
改めて感じ、
そこに 自分の娘が参加できたことは 本当に奇跡的な出会いなんだなぁと感じました。

吹奏楽を愛するゆえに 被災地の困っている学校に楽器を提供してくださったり
今回のような 大きなイベントをしてくださったり

とんでもないエネルギーをお持ちの方のようです。

「ありがとうの大合奏」に共感してくださった方はこちらの

絆project Facebook  ←必見です。





曽根様、ごめんなさい、また勝手にリンク貼りました・・・(汗)






ジャンル : 日記
テーマ : (*´∀`*)タハ

[ 2012/02/19 23:26 ] 日記 | TB(0) | CM(4)

5日目-3月15日の話。

この日の朝は、子供たちは なかなか起きてこなかった。
連日の緊張から 少し開放されたのか よく眠れるようになったのか。

私は全く眠れない日々が続いた。
眠れなくて、眠りたくて 気が狂いそうになったけれど 病院なんて行けるわけもなく
自分の家にあった薬は全てヘドロの中へ消えてしまった。
ぐるぐるめまいがして 耳鳴りがして 首が異常に硬直していたのを覚えている。

この日の朝ごはんは 何か作るということはせず 
とりあえず チョコレートや乾パン、お菓子類でごまかした。


昼間になって だんなのお父さんがリュックを背負って おじさんの家を訪ねてきてくれた。
蛇田方面からこちらに来るのに、どこもかしこも冠水や、道路が欠落していて 線路を歩いたり、
だいぶ遠回りをして歩いて来てくれたようだった。

一度、家に行って うちの両親から 私たちがここに避難していることを聞いて 家を教えてもらい
駆けつけてくれたのであった。

義父も無事だった。
義母も、祖母も当日は家に居て、2階に避難し 元気だということがわかった。
もしも義母が仕事の日ならば、湊あたりで渋滞に巻き込まれていたかもしれなかった。


ダンナの実家も 蛇田地区とはいえ 運河の近くだったために
運河の水が溢れてしまい 家は床上十数センチ程度冠水してしまった。

給水場が近いことと 家のプロパンガスが無事だったことで
ペットボトル1.5Lの水と、ご飯をたいて おぎにリを家の両親に置いてきてくれたとのことだった。
本当にありがたかった。

私たちの前では見せなかったけれど 子供達の無事がわかって 泣いて喜んでくれていたそうだ。

私たちは義弟経由で「義父は避難した」とは聞いていたので勝手に安心していたが
私たちの安否情報が届いていなかったので本当に心配していたんだと思う。

義父は私たちの所にもペットボトルの水を1本置いていってくれた。

「なんとかなるから 大丈夫だよ!」と言っても聞かず 貴重なペットボトルごと置いて、
また勢いよく歩いて帰っていった。


そのあとに 今度は同じように 義弟が訪ねてきた。
やはり 同じく 一度家に行って、私たちの所在を聞いて、やってきた。
彼の家はソーラー発電がまだ使えるからと言って 貴重なお米を炊いて タッパーに持ってきてくれた。

義弟とは 津波襲来の時に坂道で会っていたのに 多分、記憶が飛んでいたんだろうな。
子供達の顔を見るなり やはり 彼も「よかった!」と言って泣いた。

この頃になると、みな、歩ける人は歩いて身寄りの安否確認をしていた。
私も 近所の友人宅へ向かい 玄関先にあった
「全員無事に○○に避難しています」という張り紙に安堵して泣いた。

私たちは、知り合い、友人、だれでも
話に「無事だ」と聞いていても やはり 顔を見るとほっとして
会えた人と抱き合って泣いた。



話は またそれるが。


この日も 通信手段をとるべく 私たちは携帯電話とにらめっこした。

すると なぜか 私の携帯だけ 着信が入った。

以下、その時の携帯の送受信履歴から抜粋したものと、携帯に残してあったメモから。


3月15日、はじめて携帯がつながる。千葉に住む兄のメールに
15:44「家族 親戚全員無事です!」のメール返信。

16:12「やったぁ!よかったよ、どこにいたの?食べ物はあるの?」とまたメールが入る。

この間に「新着受信メール」がどんどん入ってきて
センター受信かけたら 11日、地震直後からのメールがあちこちから届いていた。
すべて 安否確認のメール。友達、兄、義姉、義母、青森の友人、鎌倉のおばさん、
いとこちゃん、神奈川の友人。

兄とはCメールが使えた。こっちの方が エラーになりにくかった。
「今、叔父さん宅にいる」「親は家、二階に居る」「食べ物はなんとかなってる」
「寒い、ラジオ、欲しい」
すぐに 充電がなくなりそうになる。
おじさんは 私の携帯を優先して充電してくれた。

夜になり

20:11神奈川のおばさん「避難状況伺い」Eメール受信。
「全員無事に生きていました 親戚関係も無事なり 皆に連絡願う」
必要事項だけやっとの思いで書く。
頭がパニックで携帯の使い方を忘れる。
文字入力、言葉がでてこない。

20:54 鎌倉のおばさん「連絡ありがとう!」兄と連絡ついた、みなに知らせたとの内容メール。
    
いとこちゃん、秋田のおばさん等に私の携帯を使っておじさんが連絡。
やはり なぜか私のケータイだけつながるので、
しばらく おじさんが持っていて 必要なやり取りに使ってもらう。

どうやら この段階で、おじさんが 秋田に住むおばさんに来てもらうことになったらしい。
秋田のおばさんとは、うちのじっちの末の妹、おじさんの双子の姉である。

必要なものをピックアップして メールする。

「炭、(バーベキューセット、紙皿ナド)乾電池各種、懐中電灯、ラジオ、マスク、石油ストーブ」

はじめは こんな感じだったけど、やり取りを重ねるごとに

「女性、男性下着、防寒着、 カセットコンロとボンベ、米、野菜、食料」・・・と贅沢になっていく要望(汗)。

おじさんも、7人(9人)分だし、必死だったと思う。




この日の夜は いただいたご飯に、いとこくんのお弁当のおかずになる予定だった冷凍食品をごちそうになり
みんな ろうそくの明かりに群がって少しおしゃべりをした。

お湯を沸かして コーヒーやココア、思い思いに 暖かい飲み物もごちそうになった。
本当に おじさんの家は天国だった。
暖かい飲み物は、人の心もあったかくしてくれるんだなぁと
しみじみ 感じた。


外部との連絡がとれた。 それは 孤独から開放される、なんとか生きていけるかもしれない と
思わずにはいられない出来事だった。本当に大きな収穫だった。


・・・なんて、書いてるけど この時は こんな風には思えなかったのが本音。
なにも 頭に思い浮かばなかった。

とにかく 「どうしよう。これから、子供たちをとにかく守らなければ」
不思議だけど なんとかそれだけは 頭にあった。



ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/02/17 13:23 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(0)

あぁ、買い物。

残りあと数日で さーねえちゃんの卒業式になります。

嬉しいような さみしいような。

今年は後者の感想が強いかも。

できることなら もう一度 ちゃんとした中学三年生を送らせてあげたかったような。

でも、何も 震災があったことによって 悪いことばかりではなかったから

それは それで いいのかもしれない。


そうそう、卒業式。
そして 入学式もあるのよね。

私、ぜひ 出席したいです。

と、いうことで スーツを買いたいんです。

今までも 何着も持っていたわけではありませんが 
セットupスーツで3人の子供の入、卒業式を着まわしてきたわけですが
その スーツやブラウスが入った タンスは一週間 塩水に浸かったあげく、
ヘドロに一ヶ月以上まみれていた結果
ファスナー部分はサビてしまい
生地もちちんでしまい

泣く泣く おさらばしたわけであります。

ほとんどの服は おさらば してしまったので

震災の後、何かあるたびに というか、季節が変わるごとに 家族分、新しい物を買ってきました。

買ったものは 普段の服にとどまらず お姉ちゃんたちの学校のジャージや制服のブラウス お父さんの礼服、スーツ、くつ 学校でつかうもの
家具、家電 布団 ナベ 食器 ストーブ、泣きたくなるほど 全部買いました。

言ってしまえば家の修理代金たるや・・・

もちろん ありがたく義援金が入金したことで 購入、支払い できたわけですが
すべて 義援金でまかなえるわけでも ありません。

初夏から 秋にかけては 本当に毎日のように
ジャスコ、ヨーカドー、ニトリやホームセンター、家電量販店、100円ショップ、
湯水のようにお金を使い、買い物、買い物、買い物ーでした。
いや、決して無駄使いしているわけではなく・・・。
必要な物を必要なだけ購入しているのですが。さすがにこんなに一気に短期間で買い物したことはありません。

きっと、みんなそうだったと思います。

最近になって 買い揃えるものが落ち着いてきてから 

スーパーでの食料品以外買っていませんでしたので

なんだか スーツなんて買っていいのかな?って贅沢言っちゃってるのかなって思いつつ

ベルメゾンやら通販サイトをガン見している自分がいます。

そろそろ 婦人服売り場、覗いてみようかなー。

いいよね?買っても。母だって オシャレして式典に出たい!

靴は洗って なんとか履けたから、あとは ブラウスや ネックレスだって コサージュだって欲しい・・・
安物でいいのだー!!

娘の入学資金もかかるってのにね。制服も、教科書も買わなきゃない!

でもでも これって 贅沢かなぁ?

・・・・・。








ジャンル : その他
テーマ : ひとりごと

[ 2012/02/16 17:23 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(4)

ダウーン(*_*)

久しぶりに 風邪をひいて、月曜日から熱を出して寝込んでました

熱といっても 高いわけでもなく、
インフルエンザでもなく、
だけど 身体中 寒くてダルくて最悪です。

今日、ようやく熱は下がり
ケータイから これを書いています。

明日は…てか、日付変わって 今日か!
もっと良くなっていますように。。。
[ 2012/02/16 00:45 ] 日記 | TB(0) | CM(2)

あの日から



あの日から もう11ヶ月。

もう?まだ?

長かった様な短かった様な。

初めて感じる時間軸の中で過ごしてきた日々。

帰れる家がなかったころ、わたし、被災者なんだなぁ・・・と実感した。

人はトイレ、お風呂、台所、屋根、壁、窓・・・家 が無いと 暮らしていけない。

しみじみと思った。

しみじみ 悔しかった。やるせなかった。

水 電気 ガス 通信 もちろんこれらも重要だが。

でも、やっぱり 一番大切なのは 家族。

そして 環境。


帰りたかった・・・、家に。

7ヶ月たって家に帰れた時は 純粋に「生きててよかった」と思った。

私達家族は 学校などの避難所で過ごしたわけではないが

散々と親戚や親に世話になってきたけれど

それはもちろん、ありがたく 贅沢なことだけれど 

正直 本当に 気を使って暮らしていくうちに

「トイレやお風呂、屋根のある暮らしをするためには、本当の自分は殺さなくてはいけない」

そういった感覚になり

そのうちに

子供達から笑顔は消え 口数も少なくなり 楽しいはずの団欒が苦痛に変わり

学校から連れて帰ってきても 遊ぶ人がいなかったるーくん。

夜中に突然泣き出した「うちにかえりたい・・・」

「津波のバカヤロー、おれの大事なもの全部だめにしやがって。」


一番、 一生懸命 いい子にしていた。



私たち親に対してもどう接していいかわからなくなったんだろうな、さーねえちゃん。

まったく 話をしてくれなくなった。事務要項のみ口にして 

亡くなった友達の分まで頑張らなければいけない思いと、自分を殺した生活の狭間で

自分の進路も考えられず 

声もあげず しくしく泣いていた。

「わがまま言ってごめんなさい」とメールをよこした。

あなたはわがままなんか 言ってないよ。

ただ 生活を共にする人たちに わかってもらえなかっただけ。



あーねえちゃんは 過呼吸の発作を何度か起こした。

ストレスを溜め込んでしまったようだった。

それでも 懸命に笑顔を作っていた。私の話をよく聞いてくれた。

「お弁当は毎日買うからいい」

「家に帰れないなら 仮設でもいい」

「ご飯は一日一回でもいいから 別な所に住みたい」

あなたのこの言葉は 大きかった。


ごめんね、不甲斐ない親なばっかりに 三人には 本当に辛い思いをさせた。

でも、当たり前に生きるために、 

もっとしんどい環境の方もいるのだからと我慢した。




親戚やら肉親に世話になって避難している人は 大勢いた。

みんな 口を揃えて言った。

「気をつかう」

これは・・・ もちろん、多少の気遣いは必要だけれども。

度が過ぎすぎてわけわからない状態を言った。

緊張の糸が 家でもどこでもほぐれない状態といったことで。

もしかして 一緒に生活する人が 赤の他人ならば 

もっと別な意味で 気楽だったかもしれない。


じゃぁ、学校に居ればよかったのだろうか。

いいや、それも違う。


結局は 通らなければならなかった道だったのかもしれないのか

あの時もっと早く アパートや貸家を探していれば、仮設に申し込んでいたら・・・

今になっても 「あの時こうしていれば」という思いはたくさんあり、

本当に 手探りで 

まともに先を見据えた考え方なんか できなかった。

頭が正常に活動しなかった。


なにもかも 突然日常が奪われた現実が そうさせたのだ。



私は 今 家に帰れた。

子供達も笑顔にもどった。

夜中に泣いたりせず 過呼吸発作もなくなり たくさんおしゃべりもできるようになった。

ドラマを見て ないたり 笑ったりできるようになった。


みな 自分らしく 生活している。

「ありがたさ」を感じる。

命あってこそだけど、ライフラインの重要性がどうしても一番に挙げられるけれど、


「自分たちの居場所」


そのありがたみを

忘れては いけない。



ジャンル : 日記
テーマ : いま想うこと

[ 2012/02/12 01:36 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(2)

震災当日から4日目、3月14日の話。

おじさんの家で迎えた 3月14日、4日目の朝は なぜか体中が痛くて痛くて
自分の体ではないようだった。
横になったのにな・・・。
そして精神状態はハイテンションから抜けられていなかったな。

2階のいとこちゃんの部屋は8帖間に 収納スペースのある広い部屋だった。
ベットがひとつ。そこに おねえちゃんたちが二人で一緒に寝た。
(この晩だけ。後日からは一人づつ交代で使った)

おじさんの家でも お客さん用の布団などがあるわけではないので
(ましてや 五人分なんぞ)
夏掛け布団を2枚重ねて敷いたり クッションやぬいぐるみを枕にした。

あまり・・・というかほとんど眠れはしなかったけれど
みんなは 休めたみたいだった。

本当によかった。



洗面所の鏡を見て びっくりする。寝不足も続いているし、コンタクトレンズも
入れっぱなしのせいか、痛くはないが目がものすごい充血していた。
2Weekの使い捨てを使用していたが もう、何日目かもわからなくなってた。
目薬はいつも持っていたから あったけれど・・・。
あーねえちゃん、さーねえちゃんも
本当は1DAYの使い捨てコンタクト。それを着けっぱなしだった。
目薬でなんとかごまかしていたが 3人で使うと目薬もすぐになくなりそうだった。

長期化するこの状況。新しいコンタクト、もしくは メガネがあればとても楽だったと思う。

(後日 家に探しにいく。お姉ちゃんたちのメガネは、たまたま廊下に浮いていたので
おばあちゃんがGETしていてくれた。私のメガネは部屋のヘドロの中から一ヶ月後位に発見された。
コンタクトは、宅配で注文したのが届いたばかりだったものを、開封していなかったおかげ&
押入れの上の方に置いていたので 迷子にはなっていなかったので使えた。)





この日から、早朝から お父さんとおじさんで、「給水」に出かけるのが日課になった。
とりあえず ラッキーだったのは、おじさんの車とうちの車、2台無事だったということ。
(ガソリンはともあれ)
この日は 蛇田地区にある浄水場が給水をしているとのことで 混雑する前に
朝早く 二人は出かけた。
車で10分ほどの場所で、津波被害はなかった地区である。
ガソリンの めどがたたないので この日は自転車で出かけた。大変だったと思う。

家にあるペットボトルを全て明け、それから アウトドア用のタンクを持って行った。
おじさんは 一気に5人も人数が増えて どのくらい水が必要になるかもわからないので
一度汲んできた水を 家にある鍋類に移して、また 給水に行ってくれた。
飲料水だけじゃなく、トイレの水を考えたら 半端ない量になるはず・・・。

それから スーパーや酒屋さんから流出した 焼酎のボトルなどを拾い集めてきた。
(けっこう この様子は見られました)
泥だらけの容器を汲んできた水で洗って 中身のお酒はもったいないけど
飲めそうもないので長靴を洗う水と化した。

でも、給水もまだ 制限があったので
とりあえず 飲料用、洗面用だけ多めにあつめて
トイレに流す水は 近くの貯水池からバケツで汲んできた水を お風呂場の浴槽に貯めた。
ようは・・・どぶの水。なんとなく臭うから、お風呂場の窓は全開にしてた。
でも この時は これが最善の方法だった。
後に、近くの小さな神社で 井戸水が出ているのがわかって
それからは そこから トイレ用を汲んできた。
近所に給水車がくるようになってからは うちもガソリンを入れられた後だったので
車で給水に行けた。制限もなく たくさん水をもらえたので
それからは すべて 給水車の水でまかなった。家からも水タンクを持ってくることができたので。

香川県、富山県、高知県、愛媛県・・・うちの近所の給水車は自衛隊と、こちらの県の方々だった。
助けていただきました。(抜けてる都道府県あったらごめんなさい)

昼の明るいうちに 行動しないと あっという間に真っ暗闇に放り込まれてしまうので
何かとやることがあって 忙しかった。

ご飯を食べるのも まずは 火をおこしてから。
本当に原始的生活だったなぁ。。。



この日は、お父さんが 近所に住む弟の家に行ってみた。
当日に会ってから どうなったのか心配だったので。
義弟家族もみんな無事だった。
義妹も、ちょうど仕事が休みだったので家にいたのだそう。まだ2歳2ヶ月だった息子もいるから
ラッキーだった。義妹の職場からは こちらに来るルートが全て冠水していたので
もし仕事だったら しばらくは帰ってこれなかった。

でも、残念ながら一階は40センチ程度の浸水。
おじさんの家よりも北にあるのに、新しい家で基礎も高いのに、運河が近いせいか、
おじさんの家より浸水していた。

でも 新しい、総二階の家だったので 家族5人でも避難所に行かずに過ごせた。
2階に洗面台やトイレもあったので 水がでないとはいえ よかったと思う。
そして 弟たちの部屋が2階ということで 服を貸してくれた。
さーねえちゃんの学校のジャージ着てたから、気を使ってくれたのかな。
お父さんの分、トレーナーとズボン。

それから お父さんが頼んだら 女性下着、整理用品、ズボンまで用意してくれた。
かたじけない。本当にこの時は助かった・・・。
最後のナプキンを使ってしまい もう このままだったらタオルを借りようかと思っていた所だった。

もし、義弟の家もうちみたいになってたら どうしたんだろうな、私。

後から聞いた話では 義弟は 当日の夕方に私たちと坂の途中で別れてから
家に向かって水の中を入って行ったのだそう・・・!
そうしたら 途中、第何波かわからないけど 津波がどんどん押し寄せてきて
自分の力では 耐え切れず 流されてしまったのだそう。
途中で、自動車の上に上手く乗ることができたので しばらく漂流・・・
なんとか家に着いたのは 夜の10時を過ぎていたのだそうです。

こんな大変なことになるなんておもわなかったから あの時
「行けるところまで行ってみる」といった彼を止めなかったことを後悔する。
本当に生きていてくれて よかった・・・。

話が そちらこちら 飛びますが

4日目、4日目。

この日も、おじさんが「冷蔵庫の物を食べないと腐ってしまうから」と
冷凍食品やら 色々と 食材をごちそうになった。またもや 寒い中 庭でバーベキュー。


そして この日から合流するまで 毎日、長靴があったジッチが おじさんの家に顔見せに来てくれた。
この日は「娘たち家族を頼みます」と言いにきてくれたのだった。
おじさんは「兄貴たちも来い!」とジッチに ちょっと強めに誘っていた。




私たちは、とにかく 外との連絡手段を考えた。

「連絡がとれない」「情報がない」というのは 本当になんとも言いようのない孤独感があった。

おじさんの家に電池や手回しのラジオはなく、唯一いとこ君の「ウォークマン」からラジオが聞けた。
それを おじさんが耳につけて、何か大きいニュースは口頭で伝えてくれた。
でも、それも充電が切れるのも時間の問題だったし、やはり 空間を通した音で聴かなければ
精神的に安心するといった所まではいかなかった。



携帯電話は、うちの家族5人のうち、4人持ってて、全て充電切れだった。
全滅したのは2日目か3日目か、定かではないが。
学校にいたとき、避難所の本部でも 「auだけなら電池タイプのものがあります」といった感じ。
うちはauだけれどその電池タイプの充電器、1000人も避難している状況で2個しかなかったので、
借りれる順番は到底やってこなかった。

(のちのちには 電気復旧も避難所が一番、「各種充電器」も取り揃えてあったみたいですが。)

おじさんの携帯も、いとこくんの携帯も まったくだめ。
こちらの二人も充電切れだった。

でもでも、ここで またもやミラクルが起こるのです!


車のシガーソケットから、コンセントプラグにできる変換機をおじさんが持っていたので
とりあえず、おじさんの車でおじさんの携帯を少し充電してみたが・・・docomoでも全く通じなかった。

でも、うちの車よりはおじさんの車のガソリンが入っていたので とにかく誰の電話でもいいから
使えるようになってほしかったので いとこくんの携帯も少し充電する。

auの充電器さえあれば、うちのも少しお願いしたいなぁ・・・と思っていたら
なんと!!

あーねえちゃんがリュックから 充電器を取り出し一言。
「わたし 持ってるよー!!」

なんでなんでー???

まぁ、家で充電し忘れてしまい 学校で充電するなんてことは ないだろうけれど
まさかの、それだった。

この時ばかりは 叱るどころか 快挙である。女子高生バンザーイ!!

ってことで、とりあえず お父さんと私の携帯をちょっぴり充電してもらえた。

そして 翌日に私の携帯だけ 連絡が取れるようになるとは夢にも思わずに

16時ころには夕飯を済ませ 日があるうちに片付けて
暗くなったら寝るといった感じだった。




つづく。







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テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/02/10 05:05 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(0)

決めました!


昨日、頼まれごとで悩んでいることを書きましたが

結局、引き受けてみることにしました、班長。

我が家は もう小学校生活は来年度の一年で終わり。それが復興元年です。
(今年度は子ども会活動は休止状態でした)
どれだけ 前に戻れるかわからないけれど、手探りだろうけれど
なんだか、何かをやって終わらせたい気がしました。

それに、子供達ばかり いろいろ頑張っていて こるくは日々の生活にどよーんと浸りすぎ。
がんばれるなら 少しは社会とつながりを持っていたほうが絶対にいい。
(ママさんにとっちゃ 子ども会、PTAも、立派な社会なのですょ)

復興のお手伝いに何かできるかもしれない。
同じ班や地区のるーくんの同級生ママたちも 気心の知れた方々ばかりだし。

こうして話があったのも 何かの縁?っていうか。
自分にとっていいことなんだという方向に捉えることに決めました。

家族も、てか、ダンナも 協力するよと言ってくれたので 心強いです。
体調悪くなったらどうしようと、今、不安になるから前に進めないのであって
もし悪くなったら なったときに考えればいい。と。

そうだよねー。そうなんだよねー。

前までは、こういうこと言われても 落ち込んでばかりいたのだけれど
震災の後は わりと こういう 物の考え方ができるようになった気がします。




それからね 「一緒に役員やりませんか?」って誘ってくれた方が居て。

その方の力添えが大きくて、五分五分で迷っていた気持ちが
はっきりとしました。

その言葉でポーンと優しく背中を押された感じで、決められました。

人生 何がきっかけになるか わからないもんですね。

来年度、無事に駆け抜けられるよう、肩の力を抜いてがんばりまーす!



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テーマ : 小学生の子育て♪

[ 2012/02/09 12:26 ] 日記 | TB(0) | CM(4)

頼まれごと


最近 お姉ちゃんたちのことばかり書いていましたが
うちには まだ小学生の子供がいたことを忘れてしまいそうでした。
ある 電話がくるまでは。

来年度の子ども会の班長をやってくれないかとの電話。

現班長さん直々に頼まれまして・・・

とりあえず さーねえちゃんの受験が落ち着くまで 考える時間をくださいと
答えは先延ばしにしてきました。

もう、昨日結果も出たし
お返事しなければ・・・・

はっきり言って 自信ない・・・。

体調だって よかったり 悪かったり、波は波乱。

ここ数年の体調よりは だいぶマシにはなっていますが。

ただ「私、今、抑うつ状態なんで できません」

って 言えない。

逆に、引き受けてしまえば プレッシャーも感じるかもしれないけれど
それなりに その緊張感や、出かけることによって
刺激になって それが いい方向に作用する可能性もある。
頑張れば できないことではない気もします。


最後に自分自身で子ども会の役をやったのは
同じく「班長」であーねえちゃんが6年生の時。
その後は、お父さんに少し協力はしてもらいましたが・・・。

その頃も、病気であったけれど 上向きだったので
図書ボランティアをやったりしていた頃です。

はぁー、悩む。

「他にやる人いなんです。」と言われると
余計に断りづらい。

頼まれると断れない性格なくせに 引き受けてしまうと 頑張りすぎてしまうからなぁ。

そして結局、何かの行事の時、具合の悪い時に当たってしまうと
家族、お父さんに迷惑をかけてしまいます・・・。

でも、来年で小学生は最後になります。
子ども会も最後の一年。

今まで 他の役も 体調不良を原因にのらりくらりとかわし続け
ろくに役などはやってきませんでした。

ただ、行事はなるべく参加してきましたが・・・

だからこそ いままでの恩返しに
引き受けた方 いいのかなぁ。

どこのオタクでも大変なのは 同じで。
こるくのようにのほほ~んと暮らしている人は少ないからねぇ。。。


ジャンル : 育児
テーマ : 小学生の子育て♪

[ 2012/02/08 15:34 ] 日記 | TB(0) | CM(0)

サクラサク

以前も、このタイトルで記事を書きました・・・。
そう、2年前のあーねえちゃんの高校入試の時でした。


本日、16時。さーねえちゃんの入試の合格発表がありました。




合格です!!サクラ咲きましたー!やった!



震災なんかに負けてたまるかってもんです!

今まで気にかけてくださった方々に とりあえず 報告まで!!!





ジャンル : 育児
テーマ : 中学生のママ

[ 2012/02/07 21:50 ] 子供の成長 | TB(0) | CM(8)

ありがとうの大合奏-その2。



昨日の昼間に行われた NPO絆project「ありがとうの大合奏」は大成功でした!

改めて いろんなこと思い出しちゃって 泣いてしまった。

動画、見れるサイトを見つけたので 

よかったら 子供達の純粋な「ありがとう」を聞いてあげてください。

Ceron.jpっていうニュースとかのサイトから。ニコ動だと思います。

↓↓↓
http://ceron.jp/url/www.ustream.tv/channel/kizuna-project1




うちのあーねえちゃんは 合唱隊にいます。
左後ろのほうに居る、一際輝いているポニーテールの美少女、そう、その子、みつけた?(親ばかwwwよく言うよw)
いきものがかりの「ありがとう」を唄っている時に ちょっと大きく写ったので大騒ぎして見ちゃったf^^*)

国旗を挙げるタイミングに、「カンペ」が出たんだそうです。「今!」って。(裏話)
でも こんなにも多くの国々からの支援があったことも 初めて知った私・・・。
すごいなぁ。ありがたいなぁ。



さーねえちゃんの中学の子達が、パーカッションの後ろの方に並んでいた様子。
でも、ぜんぜん映らなくて ちょっと寂しかった・・・。


けど、石巻、女川、東松島市の子供達、本当に頑張ってる!
その子供達、一人一人に支える家族がいるんだよね。
大変なのは 自分だけじゃない。
生きて行くのがつらいのは 自分だけじゃない。

元気 もらいました!




ジャンル : 日記
テーマ : みんなに知って貰いたい事

[ 2012/02/06 00:15 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(11)

ありがとうの大合奏

突然ですが お知らせです。

2月5日(日)13:20~より

石巻から、「ありがとうの大合奏」があります!


詳しくは こちらのURLへ
http://www.hmj.co.jp/kizuna/


Yahooの復興デパートメントでも 紹介しています。
http://fukko-department.jp/event/ 

そして、こちらのURLで ライブ中継があるそうです!!

↓↓↓

http://www.ustream.tv/channel/kizuna-project1


お暇で もし興味のあるかたは 見てみてください。

我が家からはあーねえちゃんが、参加しまーす♪

さーねえちゃんはもう、引退したので参加できないのですが 
見にも行けません。
なぜって?
受験生、最後の模擬試験日デス。。。Σ(ーДー|||)






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ジャンル : 日記
テーマ : みんなに知って貰いたい事

[ 2012/02/05 03:20 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(4)

百聞は一見に如かずの意味がわかった日。

震災から3日目以降の様子。

おじいちゃんが撮影していた写真は沢山あるのだが、その中から家の周りの様子のものを少し載せます。
相変わらず 現像した写真をデジカメでまた撮っているので写りは悪いです。
現場を散々見ていましたが、数ヶ月後この現像された写真を見た日、
あらためて思った感想が「タイトル」です。

2階からの近所の様子です。
以下4枚の写真の日付は3.13になっています。私たち家族がおじさんの家に移動した日になります。


↓だいぶ水は引けました。 靴・・・長靴さえあれば脱出可能な水位でしょうか。



↓こんなふうに 自衛隊の方が回っていたなんて。それが自分の家の前だなんて今だ、信じられません。
P1000298.jpg

P1000299.jpg

↓子供達の勉強部屋のプレハブハウスです。下の基礎は打ち付けていなかったので、ハウスの
気密性が高く 津波に浮いてしまい、水が引くと同時にそのまま隣の御宅との間のブロック塀の上に着地したため
斜めになってしまいました。もう片方は家に突撃しましたが、家の屋根と雨どいが少しやられただけで
大きく破損しませんでした。
ハウスに後付けしたテラスの支柱がしっかりしていたお陰で 流されずに済んだ。
テラスの屋根は壊れちゃったけどね。



↓家の中から見るとこんな感じ。ガラスを割られなかったのも奇跡です。
P1000293.jpg


↓14日 だいぶ水は引けました。地上からの画像。見事にななめ・・・。
ただ、このミラクルのおかげでお姉ちゃんたちの一部の本、卒業アルバムなどが全く濡れずに済みました!
P1000302.jpg




↓15日 ジッチは外へ行動し始め、大通りに出て 近所の様子を撮ったものから。
 自宅から 西方向に700M~位でしょうか。
P1000311.jpg
↓この通りでは西に行くほど ほとんどの店のガラスがやられていました。
P1000344.jpg

↓しばらくの間、どこもこんな感じでした。
P1000318.jpg
P1000309.jpg
P1000345.jpg
P1000342.jpg

↓国道です。脇にスーパーの駐車場や住宅・・・。地震なのか津波なのか、道路が根こそぎ無くなってしまっています。
P1000310.jpg
P1000319.jpg

↓スーパーの正面。ここらへんは、工業港からの水が直撃です。
このスーパーは今だ 再開しません。よく行っていたのでさみしいです。
P1000349.jpg

今は嘘みたいに きれいになって、道路もすぐに工事されました。
自衛隊の方のみならず 民間業者の方、ボランティアの方々の力があってこそです。

きれいになり、信号機も通常に戻ってからは また見慣れた景色にもどりつつあったのですが
こういった写真を 改めて見ると あの頃を思い出します。

忘れたいような気持ちと 忘れてはいけないという思い。

もうすぐ11ヶ月経とうというのに

まだまだ 複雑な心境です。



ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/02/04 05:44 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(0)


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