ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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晴れた日には。


今回の津波浸水で 我が家にあった写真の数々は
みんな 水没。

子供達の小さい頃からの日々のスナップ写真、

学校の行事で購入したもの、

保育所の卒園アルバム・・・

もはや、化石だけど
私たち夫婦の独身時代の写真や学校の卒業アルバムとか。

たまたま、お姉ちゃんたちの小、中学校の卒業アルバムは

プレハブハウスに置いてあったので 水没しなかったのだけれど。
(ラッキー)




なかでも スナップ写真は膨大な量で。

しかし 丁寧に洗う手間をかけられないまま
なかなか 手を付けられないで 物置に 追いやられています(汗)

早く やってしまわないと 救えるものも アウトになってしまいそうで
焦っているのですが

もう1年もたつのに

なかなか 写真の洗浄まで 手が回りませんでした。

特に 昨年の冬になってからは 寒くて

物置に風を入れるくらいしか やってなくて。

そして 雪が降るようになってからは

放置状態でありました・・・。


しかし。

もう、石巻にも 春がやってきています。

風は強いものの、まだヒートテックは着ているものの。


一昨日はなんと いいお天気になり 

とりあえず、写真屋さんからもらう ポケットアルバムに入っていた
写真を5冊分、ぬるま湯にうるかして 

セロファン部分とくっついてしまっているので
少しづつはがして 洗浄しました。

1年経っても 泥はついたまま。

カビも生えてしまってるヤツもいて なかなか やっかいです。

結局、周りの部分が剥げてしまったものが大部分で
ダメになってしまったものも ありましたが。


洗濯物を取り込んでから 写真を乾かしました。





あせっても あせっても あせっても あせっても あせっても
あせっても あせっても あせっても あせっても あせっても

どうにもならないのは わかっているのですが


あせってしまう。





ようやく お天気もよくなってきたし

少しずつ 自分のやれる限りで 片付けていけばいいのかな。


写真たちは 泥んこ、カビだらけ。

かわいそう。

早く 片付けなきゃいけないのに

こんな 持ち主だから こんな目にあってしまってる。





ほんとうは 

最近になって 

写真とか 洗うことも できるようになった気がする。

やらなければならないことが他にあるからとか

寒い季節だからとか

言い訳していたけれど




実は 昨年の夏に 一部の写真を少しだけやった。

写真を洗浄していると

やはり それぞれの 写真たちへの思いとか
いろんなことが 思い出されて

それが 泥だらけになっていることが 理解できなくて。

こだわりのアルバムなんかだと

とくに やる気にも 見る気にもならず。

子供たちの七五三の写真は 泣けてきて。

こんな、弱虫な自分が 情けなくて。


負けるもんかって めそめそしてる場合じゃない、片付けなきゃって
他の人たちは みんな 頑張っているだろうに。

何もかもなくなってしまった方々に比べたら
洗浄して見れる写真があるだけ マシなのに。




少しずつしか できない。

わたしは

こういう人間なんだ。


周りに 笑われても 軽蔑されても

わたしは あまり頑張りすぎると

疲れてしまって 泣きたくなって パニックになってしまって
何もかも放り出したくなくなってしまうから。

だから

写真たちには悪いけど

晴れた日には 少しずつ 少しづつ 

片付けていくから。

子供達にも 手伝ってもらいながら

やってみようかな。

アルバムも買ってこなきゃ。



るーくんの 五月人形も 箱から出してみなきゃなぁ。。。

ふぅぅ。


晴れた日に 少しづつ


頑張ろう。







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ジャンル : 日記
テーマ : 頑張れ自分。

[ 2012/03/31 17:06 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(4)

思い出の場所の手掛かりの写真。

我が家の三人の子供達は 幼い頃 「幼稚園」ではなく
市立の保育所に通っていました。
子供たちが小さいころは 私も働いていたので
朝 子供達を保育所へ送り、そのまま仕事へ。仕事が終われば迎えに行く
そんな 毎日でした。

あーねえちゃんが3才のころ、初めて入所し、それからさーねえちゃんも、
るーくんにいたっては 0才から入所し、6年間通いました。

通年 9年間、この保育所にお世話になりました。



子供達にとっては あまり 記憶が鮮明なものはない時代のことかもしれないが
それでも 断片的に残る思い出はあり、よく話にも出ます。

私や お父さん、それから 私が病気になってからはおじいさんが 
るーくんの送り迎えをしてくれたこともあり
大人にとっても 大切な思い出の時代、場所です。

DSC_0064.jpg


この門を入ってすぐ 右手に 藤棚があった。
木の幹は 歴史を感じさせる太さで 少し S字に曲がったその幹に
よく子供達は登っていた。

春には 紫色の綺麗な藤の花が咲き 「ぶどうみたーい」と言ってたね。

DSC_0065.jpg

左の方にはブランコ、すべりだい、砂場、桜の木があったよね。

のぼり棒、鉄棒・・・

そして テラス、下駄箱、教室。

ここでやった 運動会、発表会。

行事もだけど 毎日の成長を見守ってくれた。

るーくんは ここで はじめて歩ける様になった。
離乳食の給食も食べた。

DSC_0063.jpg







小さいけれど プールもあったよね。

DSC_0060.jpg

夏は 毎日の様に楽しみにしていたよね。
プール開きの行事、楽しかったよね。

DSC_0059.jpg


こんなふうに なってしまったけれど
このプールと 門がひとつ残っていてくれたおかげで
ここが「保育所」ってわかってよかった。

いままで ここらへん一帯の写真も撮る気にはなれなかったけれど
いつか
この状態も なくなってしまう日が来る前に
思い切って 写真を撮った。

思い出の大切な大切な場所。

初めて 子供達が社会に出た場所。

私が初めて 子供達を集団に出した場所。


最初は、もっと家から近い保育所が希望だったけれど
定員がいっぱいで
たまたま 空きがでた この保育所に縁あって通うことになって。

入った当初は 戸惑いばかりだったけど
周辺の環境の良さに恵まれていたから よかったと思った。

保育所の前の遊歩道には桜の木が並び
そこを 子供たちが 散歩した

DSC_0062.jpg



送り迎えのときには 保育所の迎え側にある駐車場に車を止めた。
手をつないで 道路を渡ったよね。

月曜日は お昼寝用の布団を運んだよね。

DSC_0066.jpg


こんなに近くに市立病院があったんだ・・・
駐車場からは 見えなかったのにな。




この保育所を卒業してから 昨年の震災時まで もう4年は経っていたけれど
うちの子供達が在所しているころから
ここの保育所の所長先生、ほかの先生方の地震が発生したときの対応に関しては
徹底されていたように思う。

海岸と北上川の河口とのすぐ近くということ。

在所中、たびたび 内陸地震などが起きていたこともあり

「地震=津波」を想定した 避難訓練を行なっていた。教室の間にある廊下にはいつも
非常持ち出し袋が掛けてあった。

一応、避難先は歩いて 少しは内陸に入る 門脇小学校が避難場所になっていたが
大きな地震の時は その上の日和山へ行くことも 考えられます。と、当時の先生は
話していた。

お子さんの命最優先で 動きます。と。

今、思っても 本当に 安心して子供たちを預けて 仕事していたと思う。






跡地から 奥に見える小学校。

もちろん、震災前は まったく 見えなかったのだけれど。

今回の震災でも それは実行され 子供達は先生方に守られた。

0歳~の小さな子供達は先生方の車に押し込んで
自分で歩ける子供たちは 
泣いても励まし続け 小学校よりも先へ、上へ、走らせたのだそうです。

判断が早かったおかげで 渋滞にも巻き込まれず 
車で移動した子供たちも無事だったそうです。

きっと

こういう防災意識は

海の近くとか、そうじゃない 関係なく

みんなが持ち続ける、継続して想い続けることが大切なのかなと思った。

あのころから、ずっと 避難訓練は続いていたってことだから。




話 それちゃったけど






 ここには 

わたしたち家族の思い出が 

沢山詰まってる。




本当に お世話になった場所。


ずっと ずっと 絶対に 忘れないから。


不思議なんだけどね

心の中にある 保育所は ずっと あのときのまま。

そこで思い出すのは 小さかった子供たちの

朝、後追いして泣いた顔や 迎えに行った時の笑った顔。


この場所が こんなふうになってしまったことは

とても 悲しいことだけれど

色あせないで キラキラしていたころを知っているから

そのまま 覚えておくことが

私たちの使命っていうか、そんな気がします。






ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/03/28 02:52 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(4)

ただいま~



すっかり報告が 遅くなってしまったけど、
あーねえちゃんがその後
無事に帰ってきました。


無事に帰ってきたはいいけど、
家に着いて
どっと疲れが出たのか
こたつに入って
録画していた石工の試合と、
最後から二番目の恋を見て

隣の部屋の
私の布団に突っ伏してしまいました。

夕方6時頃に寝てしまい、
それからまったくおきない!

朝の6時まで眠り続けておりました。

けっきょくその晩、私があーねえちゃんの布団で眠りました。


(次の日も部活でしたー)

おつかれさまでした。

とってもいい経験になりましたね!


ジャンル : 日記
テーマ : 高校生日記

[ 2012/03/27 02:26 ] 子供の成長 | TB(0) | CM(4)

石工ナイン、お疲れ様!

3月22日。

石工の甲子園での試合は 14時からスタートでした。

あーねえちゃん達は 21日の14時半まで 自分たちの学校に集合し
音出し、練習をして 夕方17時ころに 石工応援団と合流。

工業高校でみんなで夕飯を食べ
19時に 石巻を出発しました!
バス、15台でいざ 甲子園へ~!!
二時間ごとの休憩を入れて15時間の道のり。

今朝、少しだけ遅れているとのメールがきた。
ちょっと心配。

9時40分ころのメール。
「試合、録画しておいて」のお願い。
「今、滋賀県です。まだ大阪じゃない、少し遅れている」
ええ~!!だいじょうぶかよー。

そうこう しているうちに 午後になり
テレビでは 試合が始まりそうです。
もちろんみんな、間に合ったのですが。
余計な心配かけさせんでくれよー((笑)心配性・・・

家のテレビで ジッチと二人で応援することにしました。

ばっぱは、二階で一人でじっくり見たいと言って 一人応援。
さーねえちゃんは友達の家に集まって 応援。
(知ってる先輩いっぱいいたね♪)
お父さんは 会社で時々 ワンセグ応援。

みんな それぞれ テレビの前で応援体制ばっちりです。



試合は 今までにない興奮状態で ジッチと大騒ぎして見ていましたΣ(゚∀゚ノ)ノキャー
だって、いつもすぐ近所で見ている子供達が、テレビに!
しかも アルプススタンドの応援紹介でバッチリあーねえちゃんも映りました☆
ジッチと二人で
「あーねえちゃん~!」と叫ぶ・・・。←お馬鹿な親子ね。
ジッチ、「もっとうつせー!」って、主役は石工ナインですからね。


初めは、一点も点数入れられなかったら かわいそうだな、とか
大量に点差がつくのだろうな、とか。
毎回三者凡退だったら あー姉ちゃんたちも 応援のはりあいないだろうな、とか。
いろいろかんがえてたけど。

なんと 5点も入れた!
一度は逆転までしてしまう!
もう、もう、すごいよ、みんな。気迫のプレー!

エラーが続いてしまったら もう ため息やら 手に汗かくやら。
はらはら ドキドキ 

そして、やはり娘達の音にも耳を傾けながら…

ジッチと やんややんやと、監督気分で大騒ぎ。
9回の裏は メイクドラマを期待したけど・・・残念だった・・・。

でも、くやしいってより

最後には なぜか 達成感、そしてほんとうに感動しました。

緊張や空回りもあったけど きっと実力の半分も出せたのか、わからないけど。

一生懸命な姿に胸を打たれました。


主将の 阿部くんの男泣きを見て 

ジッチと二人でもらい泣きー(T▽T)


甲子園という大舞台で
こんなにも 見ごたえのある試合、そして
落ち着いた 選手宣誓。

みんな すばらしい選手たち。

みんなのおかげで あーねえちゃんも甲子園に連れていってもらえました。
ありがとうー!!

そして

お疲れ様でした!


あーねえちゃん、応援団一行は
帰りに京都に寄り
旅館でお風呂 食事 休憩をとって
22時に出発しました。

さきほど 無事に 出発したと連絡ありました。
明日10時ころ 帰ってくる予定です!

応援団も、お疲れ様!
応援は負けてなかったぞー!

石巻の高校が甲子園に21世紀枠で出場できたこと。

初めは なんだか 
嬉しいけれども
資金面など大変だなぁって少し思ったけれど

今日は 本当によかったと思った。

石巻市全体が 石工ナインの甲子園のプレーのおかげで
ほんの少しでも
明るくなった 気がします。

なんていうのかな。
あきらめないことが大切なんだってこと 彼らに教えてもらいました。

そして
石巻の高校生のパワー、みんなに見てもらえて よかった!!
ねっ!


ジャンル : 日記
テーマ : *感謝そしてありがとう*

[ 2012/03/23 00:58 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(2)

甲子園、選手宣誓




石巻工業高校の主将の選手宣誓。
どうしても、ここに載せたいと思ったので
そのまま書きます。



「宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。被災をされた方々の中には、
苦しくて心の整理がつかず、今も、当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、
悲しみに暮れている方がたくさんいます。

人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。
しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、
その先に必ず大きな幸せが
待っていると信じています。

だからこそ、日本中に届けましょう。
感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を。

我々、高校球児ができること、それは、全力で戦い抜き、最後まで諦めないことです。
今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。
 

平成24年3月21日、選手代表、宮城県石巻工業高等学校野球部主将、阿部翔人」





この宣誓にうそはなかった。




彼ら、石工ナインの結果は 負け。
9-5の4点差。
でも、感動したよ。
勇気、もらったよ。

そして、いっぱい笑顔になったよ。


いろんな記事を見たけど この記事をリンクしておきます。

毎日新聞社


答えのない悲しみに 途方にくれたけど
あなた達の考えて伝えた言葉のおかげで

幸せが待っているかもしれないって
思う事ができました。

ありがとう!!



ジャンル : 日記
テーマ : *感謝そしてありがとう*

[ 2012/03/23 00:10 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(0)

震災メモから、つづき。

最近、震災の記録が滞ってました。
前回は、片付けながらの日々、両親は秋田へ。私たち家族はダンナの実家に移動することに
なるであろう話でしたが

その状況と平行してあった日々のことを携帯に残してあったスケージュールメモと
メールの送受信の文章から、どのような状況だったか書きたいと思う。

それから
お父さんの会社もとりあえず 無事だった本社の建物の2階で
業務をはじめることとなる。3月の半ばには もう会社に行っていたと思う。
会社は大きく被災してしまった。雇用調整助成金申請というものを会社が行なった。
3月分の給料は2月分と同じ金額を支給とのこと。
それ以降は 半分ももらえるのだろうか。
つまり 給料は激減することとなるが、仕事があるだけありがたい。
お父さんが居た事務所は 骨組みだけになってしまった。
ロッカーに入れていたものが 無くなった。
と、いうか
ロッカーも、デスクも、パソコンも…
残ったものは何もなかった。
通勤車として使っていた軽自動車は流出した。

いまだに、車は新しく購入せず、
お父さんは自転車通勤しています。
会社も近くなった事もあり…頑張ってくれています!



メモより。


4月7日 
深夜 大きい余震 石巻で震度5弱 また、停電と断水生活に戻る。

4月8日
  プレハブハウス、昨日の余震でブロック塀が崩れ まっすぐに近い状態になる!
びっくりだ。
   それだけ揺れたってことか。

4月9日 
電気 水 普及 トヨタにお金支払いに行く(車検代)。
震災前、車検代を銀行から引き落として
    タンスの引き出しに入れていた。
ひっくり返ったタンスを起こして、引き出しをバールでこじ開けた。
    お金、無事でなによりだった。水で洗って乾かした。
    七十七銀行は石巻本店、蛇田支店くらいだろうか。
本店はいつ行けるのかと思うほど長蛇の列。
外に案内の人「3時間待ち」と書いたダンボールを持っていた。

4月14日 
中学校より 始業式を伝えるメール。4月21日木曜日、午前。午後から入学式。
     制服ある人は制服、ない人はジャージ、ジャージもない人は
華美でない私服で登校とのこと。
     この状況下、制服がある人、いるのですか?先生??
    持ち物、上靴、筆記用具、指定背負カバンで。
ない人は スクールバック可。
    って、まず、スクバを買いにいかなきゃないよ、先生!
上靴も、みんななくなってるよ・・・
    (避難してきた方が靴が無くて持っていってしまった例もあったようだ。
     でも、たぶんみんなうちと同じで外靴がないから持っていったのかも)
    学校、600名避難中とのこと。

4月16日
 小学校からも始業式の連絡メール。中学校と同じく21日。
入学式は25日とのこと。
4月19日 
中学校からメール。22日以降の授業はしばらく午前授業になるとの連絡。

4月20日 
小学校からのメール。翌日の始業式についての持ち物確認など。
     集合場所は校庭、学年によっては教室に避難者いるため 
中に入れないので 教科書の配布は22日に。

4月21日 
さーねえちゃんはジャージで登校。
お父さんがずっと着ていたのでものすごく抵抗していた(汗)
    ○ちゃんのお母さんが有志に声かけて制服を集めていたそうで 
    翌日に上下、戴くことにする。
     ありがたい・・・!○ちゃん母に電話してお礼。
    今は、やっと水明町にアパートを借りたと話していた。(学区外)    

4月22日 
中学校から下校時刻についてメール。
25日から簡易給食(パンと牛乳のみ)出ることになったので
     下校時刻が13時ころとなるとのこと。
(小学校も同じくパン、牛乳が出ることに!)

4月23日
 るーくんに 学校でどう過ごしているか聞く。
    机、イスは廊下に出し、一つの教室に2つのクラスが一緒に入り授業。
    自分のランドセルを机代わりにして床に座っているとのこと。
    すこし 広い教室に移れるかもしれないと笑顔で話していた。

4月24日 
小学校からメール。授業変更の日程の連絡。 
高学年は28日に米軍との交流活動を行う予定、
     5月2日以降は 避難している方に体育館に移っていただくため、
     全ての校舎の教室が使用できるようになるので、
授業も通常時間割に近づける予定とのこと。
     体育館のヘドロ除去、清掃を自衛隊の方々がやってくださるそう。
ありがたい・・・! 

     さーねえちゃんのスクールバック ヨーカドーで買う。
蛇田 あけぼのは普通だった。
     うちらのいる場所だけ戦後みたいでなんだかなー。

4月25日
 中学校から 学区外通学者に対して 送迎に関しての連絡。
      学区外から自転車に乗って登校させないで欲しい、
学校の近くじゃない人は原則保護者の送迎で
      お願いしたいとのこと。
4月27日 
スポーツ用品店に さーねえちゃんのジャージ注文してくる。
     Tシャツ×2、ハーフパンツ×2、長袖上下ワンセット。
     学校で制服のスカーフを買う。泣きたくなる、
あと 一年で卒業なのに また新しく購入って・・・。
     スポーツ用品店、北上川の近くで おもいっきり被災した店舗。
     ジャージも 一気に注文殺到、しかも ジャージの生産工場が福島だそうで
     いつ届くかわからないと言われた。 しかたない。
     でも、学校は なるべく早めに揃えるようにと言う。
     頭に来る!指定カバンはヘドロを落として なんども洗剤で洗って
     ダウニーに漬け込んで 日光消毒して・・・を繰り返し いい香りぷんぷんにして
     使用できるようにした。

 
中学校に関しては 早いうちから 指定品を早めに用意してくれとのことで
はっきり言って 別なもので代用したり もっと猶予が欲しい!と思うことも多々あった。
もちろん、許容範囲内で代用品も可だったけれど
みな、家ごと流されているのに 大変だ。

でも、後になって、あの時頑張って用意してよかったかもしれないと思った。

阪神・淡路大震災のときに なかなか 学校の再開が進まず、
被災者、避難者の生活も 再建へむけて進みにくい傾向があったのだと あとから市役所からもらった
ハンドブックに書いてあった。

すこしでも早く 生活再建へ。
少しでも 日常に近づけてあげることが 子供たちにとっての安心にもつながるし
大人たちも 子供たちのためならば 多少無理しても動きます。

復興の第一歩は、学校の再開なのだそうです。
うーん。納得。

小学校との大きな違いは、学校が被災しているか、いないか だった。

小学校に通う生徒の家家も、悲惨なほど被害を受けた。
特に 学校よりも南側の家は・・・。

小学校の一階も津波が浸水してしまったが 学校自体 地盤が高いので
さほど 浸水の高さはなかったようだ。
津波襲来時に学校に居た方々は 2,3階に避難済みだったそうだ。
だが 車はダメになった。しばらくの間 ものすごい体制で山積みになっていた。
南側フェンスは壊れていた。

学校が再開して ゴールデンウイークが終わるまでは 各教室が避難所だった。
体育館を自衛隊の方に清掃していただいて
避難者のかたに 体育館に移動してもらい 少ししてから
普通の学校生活にもどった。
体育館を使った授業はできなかったけどね。

中学校は 高台にあるため、はじめから体育館が拠点となった避難所だった。
でも、高台からすぐ下が被害が甚大だった地区のため
人が多く 一階の特別教室は 避難者の方の住まいになったままだった。

3階フロアーは全て 焼けてしまった小学校のために使ってもらっていた。

このころ あーねえちゃんの高校は 避難者が80名程だった。
一度、火事の延焼危険のため 退避させられた影響か、避難者を受け入れてからも
少なかったようだ。

あーねえちゃんは ゴールデンウイーク明けてから 新学期、新学年が始まった。


つづく。




ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/03/18 01:54 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(0)

いざ,甲子園へ!!

春を迎えるこの季節。
いつものように 選抜高校野球が開催される。

こるくにとって、いや、石巻市民にとって
今年は いつもと違います!

なんと。すぐ近所にある 石巻工業高校、21世紀枠で出場が決まり
それから しばらく 石巻はにわかにお祭りムード。
資金面でも 皆さんの協力や援助のお話、応援の話、彼らの練習の様子が
毎日、地元の新聞に載ります。
同じ歳頃の子を持つ親としても、本当に嬉しく思います。

そして 今日、行われた抽選会。
試合日程と
対戦相手が決まりました。
大会2日目の第三試合。
九州・鹿児島県代表 神村学園。
相手はもちろん、数々の試合を勝ち抜けてきた強豪です。
甲子園も何ども出場している学校と聞きます。

スポーツをしている人に
結果を求めないのは 間違っているのかもしれないのだけれど
もう、私はただただ
精一杯 悔いのない 戦いをしてきて欲しいと願うばかりです。

石工ナインも、被災者です。
応援に一緒に行く 高校の生徒たちも。

否応なしに「21世紀枠」ならぬ 「被災地枠」だなんて言葉も聞こえます。
きっと、メディアにも注目されて 取り上げられることでしょう。

でも、みんな めちゃくちゃ明るい!
もしも、被災地の子供達が頑張っている姿を見て
全国の人に 感謝の気持ちが伝わったり
もっと問題が山積みなんだよってことに気がついてもらえるなら
それらのことも きっと 彼らの責務なのかもしれません。

それを知ってか、神様はものすごいことをしてくれますよね。
選手宣誓に、石工が選ばれちゃうなんて。
くじを引き当てた キャプテンの阿部 翔人君も、「何か縁があるのかもしれません」
そんなことを言っていました。
彼の言葉にも 注目されそうですが、私は、元気に宣誓してくれたらそれで十分です。
(って、何様だよって)

関連記事はこちら↓↓↓
関連記事(毎日新聞社より)

きっと 全て神様が与えてくれたことなんだろうなと思います。





選手宣誓といえば、昨年の選抜高校野球を見て 泣けたというか、
16歳の選手に勇気づけられました。

電気が復旧して間もないころだった気がします。
私は この先、どうなるのか、どうやって生きてゆけばいいのか
考える余裕さえなかった時です。

おじさんの家のリビングのテレビで 代表選手がこう宣誓を始めました。

「宣誓
 私たちは、16年前の 阪神、淡路大震災の年に生まれました・・・」

岡山県 創志学園 野山 慎介主将の選手宣誓です。

YouTubeの動画より


私は、その一言を聞いて、体中に鳥肌がたったというか・・・
うまく言えないけど衝撃を受けたような、目の前が少し晴れたというか。
そんな感覚になりました。

そうか・・・。今、あーねえちゃんと同じ年の子供達が
甲子園という場所にまでみな来れているんだ。
野球ができているのだ。
阪神、淡路で被災したひとたちも なんとか 生きてきて
子供たちを育てあげ こんなにも 大きくなっているんだ。

・・・なんとかなる!この命さえあれば、なんとかなる!

そう 思ったのを覚えています。


昨年の開催は、危ぶまれたそうです。
こんなにも大きな震災のすぐ後ですから。
選手たちはみな 喪章を付け
派手な生演奏も自粛し
それでも 高校生たちは懸命に フェアに戦いました。
昨年は宮城から仙台の東北高校が出場しましたが 練習どころではなかったであろうに、
よく行ったなぁと思います。


そして、あれから一年。
石工の阿部主将も 全国にメッセージを届けられるなんて すごいですね。


それから それから。
甲子園の応援といったら、高校生たちの応援団、チアリーディング、吹奏楽♪ですよね。
でも、石工では、今は吹奏楽部員が先細りで数名しかいないそうなんです(´;ω;`)。
しかも、一応共学なんだけど ほぼ 男子生徒ばかりの学校なので
スタンドに花を添える、チアガールなんて存在しません。

そこで!

石巻市の高校生が一致団結、スーパー応援団を作ることになったのです。

チアチームがある石工と近所の高校には、チアチームが応援要請を受け受諾。
なんと、あーねえちゃんの高校は「吹奏楽応援要請」です!
も、もちろん、快諾でございます!!!
みんな、甲子園で吹きたい!って、大喜びです。

そんなわけで 昨日、今日と 合同練習のために 石工に行ってきたあーねえちゃん。
午前はチア、応援団、吹奏楽の応援練習で
午後からは全校生徒と練習だったそうで、
「あんなに大量の男子、久しぶりに見た・・・圧力すごっ!」って言ってました。
そうよね、女子校だから、男の子見てびっくりしたのね(笑)

なんだか とってもとっても 楽しそうです。

まさかの展開で 我が子が甲子園に応援に行けるなんて 夢のようです。
少しでも、助け合って 役に立てたらいいね。
21世紀枠に入った野球部員全員のパワーを信じて
吹奏楽部一同、一生懸命応援するだけです!!

予定では、21日の夜に出発、22日試合終了後帰路~。0泊3日、車中泊のハードスケジュールです。
甲子園までバス。
大丈夫かなぁ~と、心配もありますが
それも信じて送り出すしかありませんね。

みなさんも、石巻の高校生魂を見てあげて下さい。
応援、よろしくお願いします!


石工校の前を通るたびに 励まされた、横断幕の言葉。

「あきらめない街・石巻!! 復興の力に 俺たちはなる!!」




ありがとう!

そして  

がんばれ!




ジャンル : 日記
テーマ : みんなに知ってもらいたい

[ 2012/03/16 03:45 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(6)

支えられた メッセージ。


今回の震災では
日本中、全国各地、世界からも支援をうけました。その中から
少しだけ 紹介します。

子供たちが 学校を通していただくことが多かったのですが
その中から少しだけ。



こちらは るーくんが通う小学校を全面的に支援、応援してくださった
長野県松本市の松本大学のキャンプに参加した際に(招待していただきました)
市内の小学生からのプレゼント。手作りクッキーにカードが添えてあったものです。
昨年夏のことですが このメッセージは本当に勇気をいただきました。

(写りが悪くてごめんなさい)


「いつでもこっちにあそびにおいで、みんなまっているよ。」
「悲しいことがあったけどがんばってね」
「こわいことはたくさんあるよ。みんなの心になるよういのっているよ」
「家に帰れなくていまはたいへんだけどがんばって。
まえのようにもどるまで おうえんしています。」


まだ家に戻れていなかった時だったので 胸に染み入りました。



それから
今年に入ってからだったと思います。
さーねえちゃんが 学校経由でいただいてきたもの。

今治市の中学校から
有名な今治タオル
DSC_0026.jpg

中にはメッセージが。
DSC_0027.jpg
「○○中学校のみなさんへ
人は困難を乗り越えた時、強くなれます。復興に一歩でも近づいて、
元の石巻市になれることを信じています!」
という メッセージ。
愛媛県、今治市・・・ずーっと遠い場所なのに、まるで今治の方々が
そばにいるような気持ちになりました。


学校からだけじゃなくってね、
地元の洋菓子店で買い物をした時のこと。
11月末のあーねえちゃんの誕生日ケーキを買った時です。
店員さんが よかったらどうぞ、と 渡された飴。

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これも 一緒にメッセージカードが。
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「国内、海外から 沢山の気持ちをメッセージカードに込めて 集まっています。
気持ちを強く持って 共に進んで行きましょう!」

東京の方のメッセージでした。
お店の方に、洋菓子協会かなにかの縁で 集まったものなのでしょうか。
でも、偶然手にした私は 嬉しくて
食べるのももったいなくて。。。


これは ほんの一部のご紹介。

ほかにも 沢山のご支援 あたたかいメッセージをもらいました。

素直に 嬉しかった。

みなさんのご支援のおかげで
勇気づけられたり ほんのちょっとでも笑顔になる瞬間がうまれます。
その積み重ねって 実はとても大切なんだなと実感しました。

時間がたってからも
継続的に こういった 応援を戴くと、特に胸が熱くなります。


恒例になりますが

この場を利用して お礼を 言わせていただきます。

全国の、世界中の メッセージをくれたみなさん 本当に ありがとうございました。

喜んで欲しい、元気になってほしいという
みなさんの思いが 本当にあったかくって
嬉しくて。
子供たちも 大人たちも 笑顔になりました。

これらは 全て 私の、我が家の宝物です。


本当に ありがとう!!



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テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/03/15 02:36 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(0)

黙祷の涙は前進の証。

今日は あれから一年の日。

何をして過ごそうか、どこで過ごそうか。

いろいろ考えたけれど 結局、14時46分は家に居ることにした。

ここが、私たちの一番の場所だから。

本当は家族全員で過ごそうと思っていたけれど

さーねえちゃんは 中学校で小さな追悼式があるとのこと。

それに行きたいというので 送ってきた。

あーねえちゃんに手伝ってもらい クッキーを焼いて持っていった。

ラッピングしたものは 先立ったお友達のために。

あとは 仲間のみんなで同じものを食べるんだと言って タッパーに入れて持っていった。

みんなで一緒に黙祷したそうです。



わたしたちは 家のベランダに上がった。

おじいちゃんと おばあちゃんは 

そのベランダに続く あの時助かった2階の部屋で。

さーねえちゃんをのぞく 4人で

ベランダから 海の方を向いた。

ラジオから聞こえる 時報。

14時46分。

手をあわせて 目を閉じた。


広報から流れるサイレンの音。

体がびくーんとなって 心臓がドキドキした。

サイレンの音は やはり 辛い。


情けないことに 私は ただ、目を閉じ 

手をあわせることしかできなかった。

なんにも頭に想い浮かばなくて 

今までも何ども 黙祷を この一年したけれど

いつも そうだった。


でも、今までと違ったのは

今日、

初めて 涙が出た。


ベランダから 下を見下ろし、


ここに、津波が来たんだ。


ここで 両親が恐い思いをしていたんだ。


そういう想いとか、

いろんな 悲しいことや 

辛かったことを 思い出した。



亡くなられた方のことを思い、 すさまじい光景を見たことが思い出された。



震災2日目、家の近くで 目撃してしまった 水に浮かんでいた男性のことや

南浜地区で亡くなった ママ友や同級生。

子供たちの同級生のこと。

妻を失い、探し続けた 義母のお兄さん(伯父)のこと。


震災3ヶ月後位に 買い物帰りに通った道から 自衛隊が遺体収容している様子を見てしまったこと。

たまたま通った道路から 偶然 土葬する様子を見てしまったこととか。





今まであまり 震災絡みのことで泣くことがなかったから

自分でもびっくりした。

決して全く泣かないできたわけじゃないけれど

どこか まだ 現実じゃないと思っている自分がいたり

逆に 大変な時だから 泣いている場合ではない という自分もいた。


もしかしたら 後者のほうが 大部分を占めていて

自分じゃないような 一年だった。


黙祷のサイレンと共に 溢れ出した涙は

「悲しい」とか「辛い」とか「悔しい」とか。

そういう言葉ではぴったりこなくて

涙が出たあとに こう 思った。

「ああ、自分は 泣きたかったんだ」って。

って、昨日の卒業式でも
散々泣いてきたんだけど。


でも、震災のことに関しては

もしかしたら 自分の感情が 普通に戻ってきたのかな、と思った。

人の死に慣れてしまっていたわけではないけれど

あまりにも 日常にそういったことが 溢れていたから。

そして それらを 目の前の現実と捉えていなかったのだと思う。





こうして 確実に 時間は流れていき

現実を受け入れ始めることが できてきたのかな と思う。

ようやく、スタート地点に立てたのかな。


きっと
被災地のみなさんの心は みな 違うスピードで
もとの自分にもどっていくのだと思う。
そして まだまだ 現実として 受け入れられない方も多くいると思う。


今日は
一年目の節目。


だけど

明日からも一生懸命 

生きるだけ。



災害はまた いつどこで起こるかわかりません。

自然の猛威には 人間は本当に無力で 立ち向かうことはできません。

だからこそ

二度とこんなふうに 悲しい思いを みんながしないように

防災意識について考えてくれる日になれば いい。

そのために 私が発信していることが

ほんの少しでも 役にたてたらいいと切に思う。




来年からの3月11日は

悲しむだけじゃなく

防災について 考える日になっていればいいと思う。









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[ 2012/03/11 23:50 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(4)

卒業。




「証」

作詞:山村隆太 作曲:阪井一生


前を向きなよ 振り返ってちゃ 上手く歩けない
遠ざかる君に 手を振るのがやっとで

声に出したら 引き止めそうさ 心で呟く
”僕は僕の夢へと 君は君の夢を”

あたりまえの温もり 失くして 初めて気づく
寂しさ 噛み締めて 歩みだす勇気 抱いて

溢れだす涙が 君を遮るまえに
せめて笑顔で”またいつか”
傷つけ合っては 何度も許し合えたこと 
代わりなき僕らの証になるだろう



”我侭だ”って貶されたって 願い続けてよ
その声は届くから 君が君でいれば

僕がもしも 夢に 敗れて 諦めたなら
遠くで叱ってよ あの時のようにね

君の指差すその未来(さき)に 希望があるはずさ
誰にも決められはしないよ
一人で抱え込んで 生きる意味を問うときは
そっと思い出して あの日の僕らを



”またね”って言葉の儚さ 叶わない約束
いくつ交わしても慣れない
なのに追憶の破片(かけら)を 敷き詰めたノートに
君の居ないページは無い

溢れだす涙 拭う頃 君はもう見えない
想う言葉は”ありがとう”
傷つけ合っては 何度も笑い合えたこと
絆を胸に秘め 僕も歩き出す









今日、さーねえちゃんの卒業式で卒業生が合唱した曲です。

この曲の楽譜。
昨年秋から 産休でおやすみしていますが
3年間お世話になった音楽の先生が 震災の前に 楽譜を取り寄せる手配をしていたのだそうです。
NHK合唱コンクール 課題曲ということもあって。

けれど

昨年3月の大震災がおきて 
さーねえちゃんと一緒に卒業するはずだった友が4人、津波の犠牲となり
1人はまだ見つかっていません。
学校にずぶ濡れで避難してくる子供達を見ては 先生方も胸を痛めたに違いありません。


そんなショッキングな事実があってしばらくして この曲の楽譜が先生の元に届いたのだそうです。
先生は この歌詞を見て 
この子たちに、今の三年生に 絶対に唄って欲しいと 心から思ったと話してくれたそうです。
この歌詞の意味を本当に知っているあなたたちに
これを歌って 乗り越えて欲しいと。
それを切に願った先生のために
卒業まで 一緒に居られない先生のために
昨年秋の文化祭で 先生にこの曲を歌って、先生とひと足先にお別れをしました。
(結局、今日も先生は駆け付けてくださいましたが(*´∇`*))

そんなエピソードがある曲です。


今日の卒業式での歌声は 忘れない。

みんな心をひとつにして
それぞれの生きた証を 証明するために
友の分まで
頑張って 声を振り絞って 歌ったね。

今日、式場で私の隣には
上二人の子どもが同級生で同じ時を過ごした
保育所からのママ友がいました。

母親に抱かれた
写真になってしまった彼女。

二人の子どもを置いて、
私たちも置いてっちゃった。

でも、おばあさんが、一生懸命に

歌声を聞かせてあげていました。

きっと
聞いてたよね、見てたよね。

娘たち、立派だったね。






こんな思いは 子供たちに もう二度とさせたくはない。


でも、子どもたちの凛と成長した姿に


逆に大人達はきっとこう思ったかもしれない。


「前を向きなよ 振り返ってちゃ 上手く歩けない」



そうだね。

みんなで 前を向こう。

あなたたちの姿に 

お母さんは そう 思えたよ。

ありがとう。





そして 三年間、この仲間たちと過ごせて 本当によかったね。

いろんなことあったけど、よく、ここまでがんばったね。

本当に誇りに思うよ。


中学校三年間、ご苦労さまでした。





卒業、おめでとう!






ジャンル : 学校・教育
テーマ : 卒業

[ 2012/03/10 22:26 ] 子供の成長 | TB(0) | CM(2)

共同生活。片付けの日々、そして この先の決断。

おじさんの家に厄介になって 両親も合流して
9人での共同生活。

おじさんの家に たまたま女手がなかったことは 私や母にとっては
同じく気を使うにしても また違ったと思う。

こんな言い方はどうかと思うが、
もしも おばさんも居て いとこちゃんも居て・・・となれば
女同士 心強いというメリットもあったかもしれないが
そこの家主の女性人には 相当気を使って、こんなにも長くは居られなかったと思う。

私たちはほとんど自分の家の様に 台所をお借りして、洗濯もできるようになってからは
ある程度は自由にさせてもらっていた。

けれど、やはり よそ様の御宅なわけで。


自宅のヘドロの片付けに行ってきて おじさんの家に帰ってくると、
あまりにもギャップがあって がっくりきてしまうことも多かった。


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自宅の片付けは、おじさんやいとこくんも 手伝ってくれた。

嫌な顔ひとつせずに やってくれた。

重い畳も運んでくれた。

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けれども さすがに ヘドロまみれになった物を 泥を落としても
綺麗で新しいおじさんの家に持ち帰ることは かなりの抵抗があった。
おじさんは きれい好きで 臭いも気にする人だったし。

水が出るようになってから おじさんは時々自分たちのものは
自分で洗濯をしたりしていたので
へたに 洗濯機を汚してしまったら 大変だから
そういったことで 気を使ってしまい 
もしかしたら 捨てなくてすんだ服なども 洗濯のジレンマで捨ててしまったかもしれない。

お姉ちゃんたちが10日の夜まで使っていた布団が入った押入れの中。
上段引き出しケースの引き出しにも たっぷりと水が。
この中のものも、洗濯したかった。
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コインランドリーは、近所は全て被災しており 全滅。
蛇田地区のやっている所は行列ができていた。

洗濯物だけじゃなかった。


やはり、生活を営むということは
それぞれに 家事を一つとっても ポリシーや やり方というのがある。
食事だって それぞれの考え方や好みがある。
家族であっても プライバシーやライフスタイルは守りたい。
普通は家主さんに合わせるべきなんだろうけれど
我が家の場合は 人数的にこちらが多かったことや
子供達がいることで 逆に おじさんたちに気を使ってもらった面が多かったと思う。

でも、お互いに それはそれで
疲れが出てくるのは 時間の問題でありました。

うちのお父さんにとっては 妻のおじさんの家で気を使い
家族5人でひと部屋ということで 娘たちの着替えなど 様々な面で肩身の狭い思いをしたと思います。
おじさんだって 仕事が再開してからは 虫の居所の悪い時もあったし
いとこくんも、仙台の大学に進学が決まっていたけど
電車が不通になってしまい、急遽 アパートを借りて一人暮らしすることになり
入学準備も 本当に大変そうな状況で
私たちが家にウロウロしていれば
うっとうしい時もあったんだろうなと思います。

いつまでも、ここにいるわけにはいかない・・・。
両親たちはまだしも、私たちは、早くなんとかしなければ。

そんな思いの中、毎日家の片付けに行った。

いろいろ 捨ててしまった。

私が結婚したときに両親に買ってもらった和ダンスやドレッサー。
母から譲り受けた愛用していたミシン。
母がお姉ちゃんたちのためにと買ってくれた大切な電子ピアノ。
新婚時代に買ったTV台。ペンキを塗ってリメイクした。
初めてブログを始めた、大好きな音楽の入ったパソコン。
ひとつ ひとつ 思い出の詰まったものたち。
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でも、自分だけの作業じゃないから 細かく分別していても 
マジックペンなどもなかったし
一日自分が行けない日があったりすると
全部 ゴミだと思われて 家の前のゴミ置き場の方に持って行かれてしまったりして
片付けも、思うようにいかなかった。
自分で「捨てる」と決めて置いたものでも、その日の夜には「やっぱり捨てたくない」と思い返し
次の日に ゴミ袋をあさる・・・そんなこともした。結局は見つけられず
もう、何を探していたのかもわからなくなった。
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片付けだけに 集中できるわけでもなかった。

とにかく 日々の家事もある。9人分の洗濯物、食事、掃除、買い物。
おじさんには 迷惑かけたくない。

食事作りはお姉ちゃんたちも良く手伝ってくれた。

だけど

自宅の片付けに関しては ヘドロがあまりにも凄かった時は気持ち悪く、
具合を悪くしてしまって 手伝うどころではなく、寝込んでしまっていた。
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ジャンル : その他
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[ 2012/03/09 02:47 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)

最大余震、思わぬ出来事。


昨年 4月7日の深夜。
たしか 12時ころだっただろうか。

みんなでいとこちゃんの部屋で寝ていた。
この日は 私も おじさんに缶ビールをごちそうになり 熟睡していた。

子供たちの携帯電話が けたたましく緊急地震速報を鳴らしている。
と、同時にものすごい縦揺れが襲った。

また 大きな地震だった。

怖くて怖くて 思わず声をあげた。
「いやだー、こわいっ!!」
3.11はそんな声もあげなかったのに。

天井の照明器具が 大きく ぐらん、ぐらんっと揺れていた。

おさまったと 思ったら また 外からあのいまわしいサイレンの音が鳴り響いた。
ブラインドを上げて 窓を開けたら 外が真っ暗になっている。

また 停電?!

スイッチを入れてもつかない・・・。

まただ。
油断してた・・・。

懐中電灯を枕元に置いてなかった・・・。ライターの炎で手探りし、
みんなの居る1階に 降りた。

みんな起きてきて びっくりしたねと話をした。
私はすぐに 台所に行って 蛇口のレバーを上げた。

この時は 水が出た。

よかった!水は大丈夫。ここで安心してしまった。

すると ラジオやサイレンが知らせる。

「宮城県沿岸部 津波警報発令」

これも またか・・・・。

とりあえず 身支度をして 防寒着を着込んで
いとこちゃんのバックを借りて作っていた 緊急持ち出し袋をいそいで準備。
いつ 避難してもいいように備えて 
とりあえず ろうそくとラジオの前にみな集まった。

避難するならば とりあえず 近所の線路に行こうと話していた。
盛り土された 高くなった線路が近所にあったのだ。

11日も、そこで多くの人が避難して一晩過ごした。

そういえば 11日から何日後かに 一度 津波警報が出たことがあり 
その時も線路にあがった。
自衛隊が上空から 沖合で津波を目視したとのことだった。

結局は それは デマだった。
自治体の広報までも動かすデマ。すごいね。


あ、また話はそれたけど。


結局、その晩は様子を伺っているうちに警報が解除されたので 避難せずにすんだ。

でも、朝になってみて びっくり。

水道が出ない!!

また 断水・・・。

こんなことなら 水が出ているうちに 汲み置きしておけばよかった。
また 水汲みに行かなきゃいけないー!!


(結局 この余震での停電、断水は2日程で解消された。)



そんな中 不幸中の幸い?とでも言うのか、驚くことが起こっていた。
自宅の様子を見に行ったおじいちゃんが、お昼を食べに帰って来てこう言った。

「プレハブハウス、まっすぐになってて 中に入れたぞー!中のものも、出せるぞ!」

え~、またまたぁ。

半信半疑で私も午後から見に行ってみた。

すると、確かに。
だいぶ まっすぐに見える。

????????

よく見ると お隣さんとのブロック塀に乗っかっていた片側だったが、
そのブロック塀が崩れてしまっている。
そう。
大きな余震で ブロック塀が壊れたお陰で プレハブハウスが まっすぐになり
中に入れるようになったのだ。

なんという・・・。

震災の後↓
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余震の後↓
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この写真は 曲がったテラスも外して、だいぶ片付いてからのものだけど、
ナナメ具合が違うことがわかる。

ま、決して まっすぐにはなってなかったけれど。

はじめの状況では 危なくて 子供たちも中に入って 自分たちのものも取り出せないでいたから
よかったのかなぁ。。。

ちなみに。壊れた ブロック塀は3日程前に 直りました!

このプレハブハウスは、結局。
クレーン車を頼み、吊るして 裏の駐車場に一度置いて、
足場をなおして また 吊るして元に戻してもらいました。

この当時 クレーン車なんて 個人的にどうやって手配していいかわからなかったけれど
おじいちゃんのお友達が心配して とても良くしてくれて
そのお友達のたまたま知り合いに 頼める人がいたために
もとに戻すことが出来た。

本当に 本当に ありがたい。

このまま このハウスもどうしたらいいか わからなかったのに。

つくづく

私たちは 周りの方々に助けられたなぁと思う。


感謝・・・の一言しかないです。




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[ 2012/03/06 06:32 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(0)

日日新聞社、ドラマ化。

日テレ系 3月6日 午後9時から スペシャルドラマ

「3.11 その日、石巻で何が起きたのか~6枚の壁新聞」
日テレHP
↓↓↓
http://www.ntv.co.jp/6mai/


私たちが中学校に避難していたときに この壁新聞を目にし、
初めて活字で情報を得た時の記憶が いまだに鮮明に思い出されます。

地元の小さな新聞社さんの奮闘を書いた 手記がありますが(→こるくボードに貼ってあります)
それが ドラマ化されるそうです。

このブログ関連の記事はこちら

「3月12日の記憶-その2。」
↓↓↓
http://korukuboad.blog92.fc2.com/blog-entry-59.html

震災から もうすぐ一年。
テレビも、このところ にわかに「震災、被災地、あの時なにが・・・」よく耳にするようになりました。
いろんな 特番やらやっていますが 私も 何があったのかは知りたいので見るのですが
ストレスを感じるときは
早々にチャンネルを変えます。

でも、このドラマは、ドキュメンタリーであって
ほんとうに 私たちの周りで起きたことを 伝えてくれるものだと思うので
見てみたいと思っています。

この地元の小さな新聞社は お姉ちゃんたちが通う学校の通学路にあって
高台の下にあるんです。

この新聞社の記者の方々のお陰で 
私たちは 情報を得ることができた。
それが どんなにか 心強いものだったか。

彼らの奮闘した 数日間を書いた 手記も
石巻に居た人なら だれもが 経験するであろう状況におちいっていたことなど
鮮明に書かれています。

どんなドラマになっているのか わからないけど
見てみようと思う。

しんどくなったら チャンネル変えるけど。ごめんね、日テレ。






ジャンル : テレビ・ラジオ
テーマ : テレビドラマ

[ 2012/03/05 02:58 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(2)

給食のありがたみ。

先日。

小学校と中学校経由で「給食センター」からのプリントがきました。

「来年度の学校給食は、完全給食になります」とのお知らせだった!

うちの子供達の通う学校の給食を作っていたセンターは湊方面にあり、
津波により壊滅してしまった。
結局、このセンターの再開の目処は立たず、隣町の東松島市の旧給食センターを
石巻市がそのまま譲り受けることになったらしい。

震災後は 他の稼働可能の各センターで 湊のセンターで作っていた分を分担して
作ってくれていました。
小、中学校それぞれ ちがうセンターで負担していただきました。
そして、学校給食への心あたたかい支援も沢山ありました。

でも、食事を運ぶことだけで 精一杯なのでしょう。
食器の管理、洗浄などは負担がかかることだったらしく
食器を洗浄する作業は、各自、各家庭で行うこととなりました。



思えば 新学期初めは 午前中で帰ってきた。
数日後に
簡易給食が始まったけれど パンと牛乳のみ。
各家庭で 栄養を補う食事を心がけて欲しいと言われたっけな。

でも、みんなまだ支援物資を食べている方がほとんどで
栄養バランスって言われても・・・という家庭も多かった。
本当にしばらくの間はお弁当を持たせることもほとんどの家庭では無理だったから
(調理できる環境がなかった、買い物に行っても食料が不十分だった)

本当に給食に頼るしかなかった。
高校生のあーねえちゃんはしばらくの間 支援物資のパンを持っていかせてました。

でも、

だんだんと状況は良くなってきて おかずが付くようになった。

そこで、各家庭に配布された給食用食器。写ってないけど スプーンまでいただきました。

DSC_0076.jpg

おぼんがないので 配膳はちょっと大変かも。
バンダナは、小学校で使用。ランチョンマット代わりに。
(写真のバンダナは おとたむさんの友人の有志の方々に戴いたものです)

ごはんも、今までは 一人一人 お弁当箱のような入れ物に入っていて
子供たちはそれを配膳するだけだったのですが 
震災後は ごはんも この食器のおわんに自分たちでよそっているそうです。

ごはん好きなるーくんは、「脱パン給食」に大喜びでした。


ビニール袋に入れて持っていき 汚れた食器を入れて持ち帰ってきます。
持ち帰るのを忘れてくると大変!翌日給食 食べれません。
るーくんは何度も忘れては 学校に取りにいきました。
DSC_0075.jpg

我が家の場合は、この食器が配られたころは台所が機能しているお父さんの実家にいたので
なんとか気を遣いながらも普通に洗浄して持っていけました。

でも、避難所生活をしている家庭の子、2階に住んでいる家庭の子は
この毎日の食器の洗浄も かなりの負担です。物理的にできない家庭もあったかと思われます。
なので
学校では「使い捨て食器」ようは、紙皿、紙ボウル、割り箸などの用意もしてくれていました。

るーくんも、食器を忘れたことさえ 私と二人して忘れてしまった時は
先生に申し出て この 使い捨て食器を使わせていただきました。。。


セーブ・ザ・チルドレン から 戴いたビニール製の巾着。お箸などを入れるケース付きでした。

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袋にはこう書かれています。

「たくさんの いただきます と ごちそうさまがきこえてくる
そんな あたりまえの まいにちを おうえんしています」

るーくんはこれに入れて ランドセルからぶら下げて歩いてます。
というか 石巻の小学生は みんな これをぶら下げて歩いていますね。

Save the Children Japan (セーブ・ザ・チルドレン)
↓↓↓

http://www.savechildren.or.jp/top/index.html

子供たちの健康のために 野菜ジュースなどを継続的に提供してくださっています。

恥ずかしながら、このように自分が被災してお世話になってから この団体の存在を知りました。




給食の支援は、本当に嬉しかったなぁ。
まず、子供たちのテンションが上がります!

授業日数の不足を補うために 6、7月には土曜日も午前中登校しました。
そんな時 ハンバーガー、ゆでたまご、プチとまと・・・。それぞれ違う所からの支援。

平日も、な、なんと ケンタッキーフライドチキンが登場したことも!
それから、関東地方の商店さんがセブンイレブンの「ツナサラダ」の提供。
野菜不足になりがちだったので これも すごく嬉しかったね。
それから 様々な都道府県から その産地の果物や野菜を届けていただきました。

ほかにも ここに書ききれないほどの支援を受け 
ありがたく ごちそうになりました。

またまた この場でお礼を言わせていただきます。


全国のみなさん

子供達の給食に困っていることに気がついてくれて 沢山の支援をしていただき
本当に ありがとうございました。
おかげで、子供達は給食を楽しく食べることができました。
午後の授業も 空腹で過ごすことはなくなりました。
本当に ありがたく 感謝しています・・・!




もう少しで 三学期も終わります。
この食器での給食もさよならだね。

さーねえちゃんは、義務教育も終わります。
あと 数回の給食。

最後の一年は 貴重な経験で、忘れられない給食になったね。





ジャンル : 育児
テーマ : 小学生の子育て♪

[ 2012/03/04 05:04 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(4)

少年の答辞。

一月のことでした。
中学校に行った際、校長先生が話してくださったことで私は知りました。
昨年の震災の後に 気仙沼の中学校で卒業式が行われ そこで読まれた答辞が話題になったと。
「文部科学白書」というものにまで 中学生の書いた答辞の全文が掲載されたとのこと。

少年は 言ったそうです。

「・・・苦境にあっても 天を恨まず 運命に耐え、助け合って生きていくことが
これからの私たちの使命です」

と。

この答辞のことは
テレビのニュースで放送されたことで 話題になり
ネットでも多くとりあげられ Youtube でもいくつかの動画があります。


もしかしたら 世間にとってはもうご存知の話題かもしれませんが
テレビやネットから離れていた私にとっては 最近の話題なのです。


県内のほとんどの高校で卒業式があった 昨日 3月1日。
あーねえちゃんは 熱を出してしまい、先輩たちを演奏で見送ることができず
非常に悔しがっておりました。

夕方のテレビのニュースで 地元の高校の卒業式の映像が流れていました。

あーねえちゃんが、涙ぐんでいました。

「うちの学校はたまたま 犠牲者が出なかったけど、
もし友達や先輩、後輩、先生がって考えたら・・。」と。

どうしても、テレビってのは「被害が大きかった、犠牲者が出た学校」を取材するのですね。
しょうがないことなのだろうけれど。

それで、気仙沼の卒業式の話を思い出し、
検索して 動画を見ました。
全文も読みました。


15歳。

たった15歳の彼が 顔を上げて 涙を拭い、歯をくいしばり、
懸命に「天を恨まず」と答辞を読み上げる姿は
私なんか 親の立場なのに この子に教えられる事の方が大きい。
もしかしたら 全ての大人がそう思うかもしれない。

みんな、彼の答辞に「感動した」とか「なかなか言えないこと」とか。
すごい話題になってたんだなぁと、ネットサーフィンする。

ちょっと、むかっときてしまった感想もあった。
彼がラガーマンだったことで、ラグビーをやっていた人は
「ラグビーに携わる者として ちょっとうれしい、誇らしい」なんてコメントがあった。



なんだそれ。

石巻も、気仙沼も、宮城県だけじゃない。岩手、福島だってそう。

被災地の子供達は

お涙頂戴の劇をやっているんじゃない。

友達や家族や家をなくしたんだよ。

勝手にうれしく誇りに思っててください。

・・・きっと、そんなつもりじゃないんだろうな。
純粋に彼の答辞に感動したことは わかるのだけれど。
こんなこと書くと怒られるかもしれないけど 
うれしいって・・・。


本当に 彼の答辞はすばらしい。

みんな わいわい言うのは勝手。
私もこうやって ブログに書いてるその一人。
人の言うことに文句をいうつもりもないけど つい。






でも、だからこそ。
これが 現実なんだって知ってほしい。


たった15歳で ここまでの文章を書く 経験を彼がしたんだってこと。

そして
彼だけが経験者じゃないんだってことを。



そして なぜみんな 動画を見たなら気がつかないのだろう。
気がついていても 彼の文章のことだけしか書いてないだけ?
そのことには ふれていないだけ?

卒業式は震災後の混乱した最中、たった10日後だった。
卒業式が出来ることがどんなにすごいことか。
だからこそ みんなが制服で出席できていることに
「それだけでも本当によかった、すごい」と思ったのは 私だけなのかな。

逃げた時、制服だったのかな。
それとも 無事な場所に置いてあったのかな。
それとも みんな 借りたのかな。
みんな、家は大丈夫だったのかな。
晴れの舞台、お風呂には入れたのかな。

出席している保護者の方は スーツも着ていないのをみれば
家が何らかの被害を受けたことも想像できるのにな。
支援物資で戴いた服を着ていたのかな。

私は10日後はまだ 上は11日のまま、下はおじさんに借りたズボンでした。
下着は 2階で助かったおばあちゃんの物を女4人で共有した。
お父さんは 突撃訪問した御宅で貰ったパンツ。
るーくんは裏返しにしてはかせたり 大人用のぶかぶかのパンツで過ごした。


制服は、あーねえちゃんは当日 着たままだったから助かった。
さーねえちゃんのは 地震で掛けていたのが落ちて
津波で大きなタンスの下敷きになってしまい 
何日間も泥水に浸かったままだった。
泥だらけになって 
ファスナーやホックはサビだらけになって 
でもずっと洗濯できなくて
学校に登校するときは間に合わず 唯一助かったジャージで登校した。
結局は
制服が無事だった先輩方の有志で集めてくれた物をお下がりしてもらった。
泥だらけになって、重たくて 臭くて でも、思い出のいっぱい詰まった
さーねえちゃんの制服を 私は泣きながらゴミ袋に入れた。
なんて言ったらいいのかわからない あの感情。

くやしくて たまらなくて 涙が出た。

でも、うちより被害が大きい家は沢山あり、

家が流された人は なんにも 残ってないに決まってる。
私は 自らさよならすることが出来て まだよかったんだ。


被災地で被害にあった人は 昨年、みんな こうだったんだよ。
ちっちゃいことかもしれないけど
ささいなことかもしれないけれど
こういうことの ひとつ ひとつの積み重ねだったんだってこと。


彼の答辞は
そこから うまれた 言葉なんだってこと。


みんなに 知ってもらいたい。




この、気仙沼市 階上(はしかみ)中学校 梶原君の答辞は
震災を経験した 全ての子供達が自ら思い、
考えさせられたことが集約されているように思います。


まだご存知ない方はYouTubeとか検索してみてください。
「文部科学白書」でも沢山のサイトが取り上げています。

あえて 特定してURLは載せません。
こんなにも 世間は彼の答辞で賛否両論しあっているのに
公開することを決めた本人や親御さんを尊敬します。




答辞の文中から。彼は後輩に語りかけています。


「私たちは今、それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。
どこにいても、何をしていようとも、この地で仲間と共有した時を忘れず
宝物として生きていきます。

後輩のみなさん、階上中学校で過ごす あたりまえに思える日々や友達が
いかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごして下さい」



同じ中学ではないけれど、一つ後輩のさーねえちゃんは 
3月10日に卒業式を迎えます。
誰かわからないけれど 善意ある先輩から頂戴した制服に身をまとって。







ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/03/02 04:11 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(4)


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