ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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人間は忘れる生き物だから。


先日、震度4の地震が2回もあり 本当にびびりました。

あんなにも怖い思いをした大きな揺れを経験したことを ちょっと忘れかけているんじゃないかなと

思うこのごろ。


朝方の一回目は 大きな地鳴りの音で 目が覚めて 

わぁーくるかも!!って思った瞬間から揺れ始め、

揺れている間 なぜか 隣に寝ている るーくんの頭を手で押さえていました。

午前中にあった地震の時にも 大きな地鳴りの音。

このときの揺れは わりと短く感じました。

3.11の後は 震度4程度の余震なんて ほぼ毎日 一日何回もありましたから

その頃は 怖いという思いよりは またか!という思いの方が強かった。

けれど

こうして 年月が経つと 忘れてしまうのですね。

怖さも その、またか って思うほどの 変な慣れた感覚も。



今回は1日に2回も大きめな地震があったので 食糧や水、懐中電灯のチェックをしました。

もう 使うことのないことを 願いつつ・・・。


ずっとずっと前に 地元の新聞に載っていた記事。
新聞社の記者の方がその時折のニュースについて書いている欄のものです。
私はこの記事が心に響いたので 切り抜いていました。

それを ここに書きたいと思います。

日付は6月12日。34年前、宮城県沖地震が発生した日付の新聞です。

私は 幼少期に経験したこのときの地震も覚えています。
夕方、父と一緒に家の外で花を眺めている時でした。
前の家のブロック塀は目の前に倒れてきて 自分が巻き込まれる思いをしたことや
道路、電柱や電線が波打っていたこと。
夜はろうそくの明かりの中 過ごしたこと。

そして 6月12日というと 決まって 避難訓練の日でした。
学校ではもちろん、就職した先でも訓練しました。
きっと、この日は 宮城県民にとって 防災の日 として定着していたものでした。

その後も、この日だけではなく 宮城では大きな地震が繰り返されていたのに。
大津波の想定だけは できなかったのだろうか。
津波を抜きに考えても やはり 何度となくあった地震を 教訓として本当に行かせてきたのだろうか。
なんとなく そう思うことがあったんです。

この記事を見て あらためて はっとさせられました。



~人間の忘れっぽさは「3」という数字が鍵だという。飽きてしまうのは「三日坊主」の言葉通り3日。
被災の様なつらい経験でも3カ月で記憶が薄れ、3年ではだいぶ忘れてしまう。

個人と比べて長持ちする組織でも30年で風化する。「失敗学」の畑村洋太郎東大名誉教授が著書に書いている。
東日本大震災の33年前に起きた
宮城県沖地震(1978年6月12日)の記憶も、どこか頭の隅っこに追いやられていた。

宮城県沖地震発生時に陣頭指揮を執ったのは、故 山本壮一郎知事だった。
情報通信の途絶、ライフラインの遮断・・・。都市化が地震の被害を拡大させる現実を目の当たりにして
がくぜんとする。

「効率や便利さに目を奪われ、安全性という人間にとって大事な価値を忘れると、とんでもない目に遭う」。
講演会などを通じて迅速な情報提供や各家庭での備え、地質の再調査を訴えた。

文明が進めば進むほど、天災による損害が累進していくという皮肉な結果。残念ながら、山本さんの警告は
生かされないまま、震災でも被害を助長させる結果となった。

人間が忘れるのは前向きに生きるための知恵でもあるが、災害の「健忘症」は大惨事を招く。
都市型地震の原点だった宮城県沖地震から、学ぶべき教訓は少なくない。~

2012.6.12  河北新報 河北春秋より。


人間は 忘れてしまう生き物。

だから、だからこそ 

上手に残していく方法はないだろうかと 思う 今日この頃。




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[ 2012/11/26 09:36 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(8)

悲しいことがあった。


実はこのところ ちょっと凹んでいました。
うーん、このことを 書くかもかなり迷ったけれど
書くことにしました。
今の自分の気持ちを残しておくことは きっと 未来の自分の為になると思うから。

私にとって 大切な知人・・・幼馴染の旦那様が先日病気で他界されました。

幼馴染のお姉ちゃんは、家がすぐ近くで
小さい頃は 本当によく 遊んでもらいました。

彼女は旦那様をお婿さんにもらい、実家に一緒に生活をしていました。

お互い、大人になってからは さほど交流はなかったものの
やはり 小さいころ、おもいっきりつるんで毎日のように遊んでいた時代があったから
たまに会っても、 すぐ その頃に戻ったかのように会話も弾む、そんな間柄。

私は 彼女の人柄が本当に好きで 
心から 幸せになって欲しいと思っていた人です。

すこし遅めの結婚だったけれど、一人娘の彼女が、お婿さんをもらったと聞いて
本当にうれしかった。

旦那様は、たまにしか会わなかったけれど ご近所同士のあいさつ程度の関係でした。

震災が起きたころには、よく見かけて 一生懸命 家の片づけをなさっていました。

そんな 旦那様。



ご自分で事業をやっていたとのこと。
津波で車や仕事関係のものが一切やられてしまったようでした。
震災後 再起するには大変な能力や時間がかかるだろうと 思われていました。

ところが
私たちが家に戻ってから あまり姿を見かけなくなっていました。

私たち家族では てっきり 仕事でどこかに行っているものだと思っていたのですが。

震災の後から 体調を崩されて 日赤や仙台の病院に入院されていたとのことでした。



「治るとおもっていたんだよね・・・。」

そう、彼女は言っていました。

来年、小学校に入学する予定の一人息子を見つめながら。


「ランドセル姿 見せたかったな。」



旦那様は46歳という若さでこの世を去ってしまった。

彼女と、一人息子を置いて。


運命というには 残酷すぎて 言葉になりません。


彼女は立派に喪主を務め 

旦那様にむけて

「今まで、私たちのために 1年以上闘病生活を頑張ってくれてありがとう。
 どうか、あとはゆっくり休んで 遠い空から見ていてね。そして
 息子を、二人分愛すると 約束します。」

そう 言っていた。


そして、私に 「震災でもっと大変な別れ方、思いをしている人 たくさんいるもんね!」と言うのです。

いや、十分に 今 一番 辛い状況じゃないですか・・・

そんなに がんばらないで。

そう 言いたかったけれど 言葉にならなかった。

彼女に何にも 言えなかった、私。






この 震災が起きてから 身近な方々が亡くなってしまったことは
少なくはなく

お通夜などに出席することが とにかく 何回もあったけれど

感覚がマヒしてしまっていたのだろうか。

人の死に慣れたわけではないけれど  「どうしようもなかったんだ」と
思いこませることができた。

どの方とのお別れも もちろん 辛かった。

自分の子供と同じ年の子供や、その親御さんだったりするわけで。

きっと 感情もちょっとまだ落ち着いていない状況だったからだろうか。

普通だったら もっと つらく悲しいような 状況だったよな。

今は そう思う。




でも、今回は なかなか 厄介で。

私自身の感情が、きっと 正常に戻ってきているから。




震災の後に体調を崩す 被災者はものすごく多い。

そう話には 聞いていたけれど

こんなにも身近で起こっていて そして 死につながってしまうなんて。





いっそ、すべて なかったことにならないものなんだろうか。




どうか もう 何も悪いことが起きませんように。

そう願うしかできない。








ジャンル : 日記
テーマ : 思ったこと・感じたこと

[ 2012/11/09 10:38 ] 日記 | TB(0) | CM(0)

1 1月ですね。

はやいもので、今日から11月。

夏の暑さがまだ 忘れられないうちに
秋になったけど、

ここ2,3日は 朝には窓に結露ができるほど、寒くなってきました。

でも、ホントに変な気候です。

今日の夜、7時頃は雷とどしゃぶり。
そしてその後
雨が、一気にヒョウに変わりました。
そして 竜巻注意報!

とりあえず、
何も被害もなくひと安心ですが、
凄い勢いと音で
とても怖かったです。


実は、今朝から 鼻の奥がツーンと痛くて
涙目になるし、
胃はムカムカ
頭はガンガン…。
なんだか寒気もする。

今は風邪薬飲んだらだいぶよくなりましたが、なんだかいまいち。
あーあ。
今日は近所のスーパーの特売日だったのに行かないでしまった。

弁当も3人分休み。

なんか、具合悪いわ、
特売に行けないわ、
弁当代でお金が飛んでいくわ
どしゃぶりのせいで、
具合悪いのに子ども達を迎えに行かなきゃないわで

めっちゃ最悪な11月の始まりだよ~。



早く 良くなるように、
寝よう~っと。


By ケータイから。
[ 2012/11/01 23:55 ] 日記 | TB(0) | CM(2)


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