ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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思い出の場所の手掛かりの写真。

我が家の三人の子供達は 幼い頃 「幼稚園」ではなく
市立の保育所に通っていました。
子供たちが小さいころは 私も働いていたので
朝 子供達を保育所へ送り、そのまま仕事へ。仕事が終われば迎えに行く
そんな 毎日でした。

あーねえちゃんが3才のころ、初めて入所し、それからさーねえちゃんも、
るーくんにいたっては 0才から入所し、6年間通いました。

通年 9年間、この保育所にお世話になりました。



子供達にとっては あまり 記憶が鮮明なものはない時代のことかもしれないが
それでも 断片的に残る思い出はあり、よく話にも出ます。

私や お父さん、それから 私が病気になってからはおじいさんが 
るーくんの送り迎えをしてくれたこともあり
大人にとっても 大切な思い出の時代、場所です。

DSC_0064.jpg


この門を入ってすぐ 右手に 藤棚があった。
木の幹は 歴史を感じさせる太さで 少し S字に曲がったその幹に
よく子供達は登っていた。

春には 紫色の綺麗な藤の花が咲き 「ぶどうみたーい」と言ってたね。

DSC_0065.jpg

左の方にはブランコ、すべりだい、砂場、桜の木があったよね。

のぼり棒、鉄棒・・・

そして テラス、下駄箱、教室。

ここでやった 運動会、発表会。

行事もだけど 毎日の成長を見守ってくれた。

るーくんは ここで はじめて歩ける様になった。
離乳食の給食も食べた。

DSC_0063.jpg







小さいけれど プールもあったよね。

DSC_0060.jpg

夏は 毎日の様に楽しみにしていたよね。
プール開きの行事、楽しかったよね。

DSC_0059.jpg


こんなふうに なってしまったけれど
このプールと 門がひとつ残っていてくれたおかげで
ここが「保育所」ってわかってよかった。

いままで ここらへん一帯の写真も撮る気にはなれなかったけれど
いつか
この状態も なくなってしまう日が来る前に
思い切って 写真を撮った。

思い出の大切な大切な場所。

初めて 子供達が社会に出た場所。

私が初めて 子供達を集団に出した場所。


最初は、もっと家から近い保育所が希望だったけれど
定員がいっぱいで
たまたま 空きがでた この保育所に縁あって通うことになって。

入った当初は 戸惑いばかりだったけど
周辺の環境の良さに恵まれていたから よかったと思った。

保育所の前の遊歩道には桜の木が並び
そこを 子供たちが 散歩した

DSC_0062.jpg



送り迎えのときには 保育所の迎え側にある駐車場に車を止めた。
手をつないで 道路を渡ったよね。

月曜日は お昼寝用の布団を運んだよね。

DSC_0066.jpg


こんなに近くに市立病院があったんだ・・・
駐車場からは 見えなかったのにな。




この保育所を卒業してから 昨年の震災時まで もう4年は経っていたけれど
うちの子供達が在所しているころから
ここの保育所の所長先生、ほかの先生方の地震が発生したときの対応に関しては
徹底されていたように思う。

海岸と北上川の河口とのすぐ近くということ。

在所中、たびたび 内陸地震などが起きていたこともあり

「地震=津波」を想定した 避難訓練を行なっていた。教室の間にある廊下にはいつも
非常持ち出し袋が掛けてあった。

一応、避難先は歩いて 少しは内陸に入る 門脇小学校が避難場所になっていたが
大きな地震の時は その上の日和山へ行くことも 考えられます。と、当時の先生は
話していた。

お子さんの命最優先で 動きます。と。

今、思っても 本当に 安心して子供たちを預けて 仕事していたと思う。






跡地から 奥に見える小学校。

もちろん、震災前は まったく 見えなかったのだけれど。

今回の震災でも それは実行され 子供達は先生方に守られた。

0歳~の小さな子供達は先生方の車に押し込んで
自分で歩ける子供たちは 
泣いても励まし続け 小学校よりも先へ、上へ、走らせたのだそうです。

判断が早かったおかげで 渋滞にも巻き込まれず 
車で移動した子供たちも無事だったそうです。

きっと

こういう防災意識は

海の近くとか、そうじゃない 関係なく

みんなが持ち続ける、継続して想い続けることが大切なのかなと思った。

あのころから、ずっと 避難訓練は続いていたってことだから。




話 それちゃったけど






 ここには 

わたしたち家族の思い出が 

沢山詰まってる。




本当に お世話になった場所。


ずっと ずっと 絶対に 忘れないから。


不思議なんだけどね

心の中にある 保育所は ずっと あのときのまま。

そこで思い出すのは 小さかった子供たちの

朝、後追いして泣いた顔や 迎えに行った時の笑った顔。


この場所が こんなふうになってしまったことは

とても 悲しいことだけれど

色あせないで キラキラしていたころを知っているから

そのまま 覚えておくことが

私たちの使命っていうか、そんな気がします。






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ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/03/28 02:52 ] 被災地の今 | TB(0) | CM(4)
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[ 2012/03/28 10:49 ] [ 編集 ]
鍵コメさんへ
コメント、ありがとうございます!
ううん、ぜんぜん嫌な言い方になんか聞こえないですよ。

むしろ そういう 心の在り方を
わかってもらえて嬉しいです。

そうそう。そうなの。
そこの場所や大地が 私たち家族を覚えていてくれたらなら
なによりも幸せなことだと思うんだよね。
・・・そう、信じます!
[ 2012/03/28 14:53 ] [ 編集 ]
友人の弟の家を探しました。
昨年の5月。
友人が「遊歩道があった」って。
その遊歩道が見つからなくて。
泥に埋もれた遊歩道のタイルを見つけて
それから郵便局の看板を見つけて。
やっと家を探せたのが、1時間後だったー。
この遊歩道は木の葉が生い茂っていて、
奇麗な歩道だったそうですね。
市立病院は他界した父や母がお世話になりました。
私も何度かお見舞いに行って
窓から海が見えて、本当に気持ちがよくて
「良い場所に病院ができて良かったね!」って
父母と話していたのに........。

震災のことを伝えることも大切だけれど
キラキラした想い出をそのまま覚えてることは
本当に私たちの使命ですね。
心からそう思います。
[ 2012/03/29 09:36 ] [ 編集 ]
Huranaさんへ
コメ返し遅くなりました。ごめんなさい!

そうだったんですね。
身近な人の家を探すことは 本当に辛い事ですよね。
この地域には私の友達、子供たちの友達の家がありました…。
その方々の思いを考えたら、
はかり知れないものがあります。

本当に、いい街だった。

現実は以前の状態ではないけれど、
心の中には 以前のままに
忘れないでいたいですね。
でも、思い出って
景色も全てひっくるめてだから、
きっと大丈夫かな。
[ 2012/03/31 02:58 ] [ 編集 ]
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