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ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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3月12日の記憶-その2。

家で、おじいちゃん おばあちゃんの無事を確認してホッとした私たち。
二人は 学校の体育館に行くよりは まだ 自宅のほうがマシだろうということで
私たちだけ 学校に戻った。

また 来た道をジャブジャブと歩かなければならない。
やたら、天気は良かったのは覚えている。でも、水は本当に冷たくて 寒かったけど
夜 車でもっと寒くなることを思うと、とにかく「子供達にあの寒い思いをもうさせたくない」
という思いだけで 荷物を頑張って持っていった。

毛布1枚とショール1枚、私のズボン、さーねえちゃんの学校のジャージ上下、あーねえちゃんのカーディガン
おばあちゃんのコート、靴下・・・こんな感じだったと思う。

来た時には気がつかなかったけど 家の近くにコンビニのゴミ箱や看板が流れてきていた。
その近くを、二人組みの白い制服を着た警察官が歩いているのを見た。


また、あそこを通る。

やぱっり 見間違いではなく亡き骸が浮いていた。
恐いとか その時は全く思わず、きっと あの警官の方たちが来てくれると思って安堵した。



ようやく やっとの思いで水没地帯を脱出して また大通りを歩き出す。
お父さんが、お尻まで濡れてしまったので、まずいことになった。

(↓ここは まだ 浅い所だった)
P1000284.jpg

このままでは風邪を引いてしまう。
かといって また 家に戻っても自分たちの着替えは無い。ジッチに借りるという頭も働かなかったし、
とにかく かなりの消耗で「戻る」のは考えられなかった。
私はギリギリ パンツまでは濡れなかったので ズボンは持ってきたのでなんとかなる。

坂を登ってしまえば 住宅地がある。
そこで 何軒かあたってみることにした。
「すみませんが、男性用のパンツと靴下を貸していただけませんか?」と3軒まわり
何枚か 下着と靴下を借りた。 
この際、サイズも関係なくありがたくお借りした。
三軒のうち2軒はおばあさんが親切に対応してくださった。
残念ながら男っけが無い御宅だったらしく、でも 二人とも一生懸命タンスを探してくださった。
合計トランクス2枚とブリーフ1枚、靴下2枚を借りることができた。
後に落ち着いてからお礼に伺った時にわかったが、上京した息子さんのものだったらしい。
もう一軒はおじいさんが対応してくださって この方も快く靴下を2枚貸してくださった。

本当に、ありがたかった。
全く知らない 赤の他人の家に行って まさか 下着を借りることになるなんて
夢にも思わなかったけど 
いきなり 下半分ずぶ濡れで家にこられて、「パンツ貸してくれ」と言われたほうも
びっくりしただろう。
でも、本当に こころよく対応してくださって その親切のお陰で
お父さんは風邪をひかずに済んだ。

どのくらい時間がかかったのだろうか。車に着いたら子供達は、飽きて「やっと来たァ」という様子だった。
家まで津波が来ていること、おじいちゃんたちは2階で無事だったこと、などを話して
私は車の座席にビニール袋を敷いて 座りズボンを取り替えた。
お父さんは さーねえちゃんのジャージとお借りした下着に着替えた。
靴は、さーねえちゃんが校舎から自分の上靴を持って来てくれた。
お父さんも、サンダルを借りる事かできた。
二人してガクガク震えていたので子供たちは驚いていたが、ただ「津波がきている」と聞いても
何もピンと来なかったと思う。
そりゃ、くるわけがない。

そのあとの日中は時間が経つのが長く 遅く 感じた。
ただ 車に居ても どうしようもない。

外はヘリコプターの音がすごかった。自衛隊、ドクターヘリ、取材ヘリもなのか?
隣りの中学校が避難所本部になったらしく、校庭がヘリポートになり、何度も下降、上昇を繰り返していた。
防災無線では民間業者に街の車の撤去作業に協力を呼びかけていたり
タクシー運転手さんなどはどこどこに集まってくれだとか、動ける食品提供できる会社は避難所に持って行ってくれだとか・・・何か動き始めている感じだった。
これが、2日目だったか、3日目だったか記憶が定かではない。

私たちは、お父さんの両親の事も心配だった。
とりあえず 義父は高台に避難したはずだ。義弟に会った時にそんなことを言っていたはず。
お父さんは、義父が居そうな「市民体育館」に行って見ることにした。

中学校から近いので 歩いて様子を見に行ったが 間もなくして戻ってきた。
どうしたんだろうと思ったら
「市民体育館は遺体安置所になっていて もう 避難所じゃないんだって」
と言った。

その言葉は ものすごく 衝撃だった。

義母は海岸沿いで牡蠣の養殖をしている実家で働いている。
その日、仕事かどうかわからなかったので 余計に心配だった。
実家の方に行ってみようか?と話したけど 内陸側だし、義母の実家は高台にあるから
あまり心配せず まず今日は様子をみようということになった。
家に戻っただけで ヘトヘトだったのと、子供達をまたさらに長い時間置いていくのも心配だった。
日が暮れてしまうのも こわかった。



時々 トイレがてら校舎に行ってみた。
もう、校舎の各教室も人でごった返している。
ガラスが割れている教室もあるが、そこにも人はいた。
ますます、私たちの様に車がある人は 車にいたほうがいいのかと思わされる。

「学校」が「避難所」になってから 体育館近くの昇降口にはホワイトボードが2~3台、紙とマジックペン、セロハンテープが置かれていた。
そこには数々の安否を心配する書き込みや 自分はここにいると知らせる書き込み、様々な紙が貼られていた。
私も近所の託児所のことを書いておこうと思い、大家さんの家に避難していたことを情報の一つとして書いて貼った。

体育館の方へ行ってみる。
すると、地元の新聞社が 模造紙に情報を書いた「壁新聞」をひっさげて 体育館脇に張り出しているところだった。

初めて 活字で見る情報。

全てが聞いたことのある、よく知っている土地や建物の名前ばかりで
生々しく、でも現実ではないような話ばかり。
「日本最大級の地震、津波」「津波で各地水没、犠牲者多数」
「南浜町、門脇町 倒壊 流出」「門脇小 全焼」「石巻市役所7階崩落」「天王橋が落下」「航空自衛隊松島基地 滑走路水没」・・・・

で、大きく赤文字でこう書かれていた。

「正確な情報で行動を!」本当に、そう思った。壁新聞に向かって うんうん、と頷いた。

なかなか入って来ない情報。
何がどうなっているのか わからない。
いま、なにがおきているの??言いようもない不安。
壁新聞を見て
それを、「ああ、大きな地震があったんだ」と改めて思った瞬間だった。

(この、地元の新聞社「石巻日日(いしのまきひび)新聞社」は 高台のふもとにあり、会社が被災しながらも
記者たちがなんとか情報を足で集め、「わかることだけでいい、手書きでいこうや」と壁新聞を作り
避難所などに貼ってくれていた。この壁新聞に私たちはどれだけ救われただろう・・・
後にこの壁新聞はアメリカで展示されたみたいです。)


「市役所では 炊き出しの協力も市民に呼びかけています」とも書いてあった。

そういえば 朝も、昼も もう学校側からの配給はなかった。

夕方近くになって 体育館に行くと
街のとうふ屋さんが豆腐と油揚げを支給してくれていた。でも圧倒的に足りない数。

それをどのようにして食べるか、どのように配るか、話し合われていた。
しかも、本部ではなく 後ろの方で市民の人たち、高校生やらで話し合っていた。
私もすぐに「これ、持ってきてくれたのですがどうしたらいいと思います?」と声をかけられた。
(校舎に行くと、なぜだか、やたらと声をかけられた。
たぶん学校の保護者というだけでも、他の方々から見れば何かしら知ってる人と、思われていたようだ)
私にはどうにもできなかったけど、後に本部の人が加わったのか そのまま配られていた。
調理できない状態で油揚げをそのまま食べる人は少なかった。
お年寄り、小さいお子さんの方を優先に豆腐を配っていた。
寒い中、つめたーい豆腐は 体を冷えさせるのではないかと思った。
でも 食べないよりマシ。

ただ、体育館にいる人だけでも全く足りないのだ。
校舎はもちろん 校庭の車にいる人たちにもまわってくるはずは無い。



その日の夜 私たちは 朝コンビニで仕入れてきたスナック菓子をひと袋を
5人で分けて食べた。

バーベキュー味のポップコーンだった。
その味は 今だに忘れられない。
本当に 美味しかった・・・というのはちがうかな。
なんだか 染みる味だった。

食べ終わってしばらくすると

るーくんが 堰を切ったかのように急に泣き出した。

「早く家に帰りたい~・・・いつまでこうやって車に居なきゃないのぉー??」

大粒の涙をボロボロこぼし、恥ずかしさも何もかもかなぐり捨てて
おんおんと泣いていた。

私は「我慢しないと、しょうがないんだよ」としか言う言葉がみつからなかった。


足を伸ばして寝かせてあげたい。
お腹いっぱいご飯を食べさせてあげたい。

でも
我慢するしかなかった。


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ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2011/12/30 04:11 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)
ほんと、あの頃のことは思い出しても夢だったような気になる程。
あまりにも想定外で信じられないことばかりで。
でも、お互い生きてて良かったね。
いろんな力に助けられて。感謝してもしきれないほど。
すごい一年だったね。
来年はもっと穏やかな年になるといいね。
[ 2011/12/30 07:26 ] [ 編集 ]
ともちゃんへ
お久しぶりです。遊びに来てくれてありがとう。

ほんとうだよね。夢か現実か
・・激動の年でしたね。
命があったことに感謝。様々な支援に感謝。「あたりまえ」に感謝。の年でした。
失ったものも大きかった、辛くて苦しい思いもしたけれど それ以上にいろいろな事にも気づけて、学べた年でもありました。
私たちにしかできない何かが あるかもしれませんが
まだまだ 心の傷が癒えるまで
ゆっくり時間をかけてゆきましょうね。
一日一日を大切に 日常が早く戻りますように・・・。
[ 2011/12/31 00:33 ] [ 編集 ]
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