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ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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3月12~13日のあいまいな記憶-その2.

前回からのつづき


あーねえちゃんの学校を出てすぐに 外で偶然、担任の先生、副担任の先生と会った。
先生方は 家族が心配だろうに、学校に残らざるえなかった。
車が助かっても、担任の先生は遠方から通勤なので
道路が寸断されて 帰宅できないでいたし、
生徒たちの安否確認に奮闘していたようだった。
そして、いつまた 避難所として指定されるかわからないので 情報収集もしているようだった。

副担任の先生は独身だけど、住んでいたアパートが影も形もないと話していた。
「俺は独り身なんで 大丈夫っす!」なんて言っていたけど、
その時、「でも実家とかは大丈夫なんですか」と声をかける余裕は私にはなかった。

少し歩くと 今度はあーねえちゃんの同級生と、お母さんに出会った。
初めて会ったけど 何かと会話が尽きなかった。

あーねえちゃんを見て、「なんで下、ズボン履けているの??」と言われた。

「親戚に借りれたんです」
そう言うと同時に、自分たちが恵まれていることに 気がつく。

制服の彼女は本当に寒そうで なんとかしてあげたかった。。。

避難所では 衣類が手に入るような気配もなく、全身ずぶ濡れで避難してきた人はどうしたんだろう
と思う・・。今さらながら。
もちろん、高台に住む住民の方々の支援もあり、なんとか当分はそれでしのいでいたかと思います。

実際に、私たちもパンツや靴下を貸してもらったり、後に お父さんの会社の顔見知りの方から
毛布も寄付していただきました。
私たちの様に 御宅直撃訪問した人も結構いたようですが、
自主的に近くの学校に物資を提供してくださった方々がたくさん居たそうです。

その時は ただただ、ありがたかった・・・の一言です。





そうこうして歩いているうちに


石巻の市街地と北上川河口 南浜町方面を一望できる日和山へたどり着く。

(しつこいようだけれど、この日和山へ行ったことも、2日目の昼間だったのか3日目の昼間だったのか
あいまいで、家族に聞いてもみんな はっきり覚えていない・・・。)


でも、そこでみた景色だけは 鮮明に
いまでも瞼に焼き付いて離れない。

南浜町、門脇町方面は 薄くなった煙の間から 見えた景色は
焼け焦げた屋根 車 が散乱し 
家家は みな なぎ倒されていた。


かろうじて建っている海の方に見える2階建てのアパートは
全ての窓やドアにガレキが入りこんでいて
向こう側が見えてしまうほど 空洞になっている建物もいくつもあった。

大きく立派な 建てたばかりの家が 数件残ってはいるが 2階の窓ガラスなどなく、
カーテンが なびいているのが見えた。

河口の方に目をやると 中瀬にあったはずの建物や公園は全てなくなっていた。
石ノ森漫画館だけが ポツン と残っていた。

その中瀬に架かる湊町とをつなぐ橋には
無数のガレキが洗濯物のようにぶらさがり
船やヨットが無数に乗っかっていた。

今、思い出すと「恐ろしい」「この世の終わりのようだ」とか思うこともあるけれど
でも、まだ信じられていない部分もあって・・・

その時はもちろん 実感などわくわけもなく
ただ 三人で「うわー・・・」「すごいね・・・」「なんだこりゃ・・・」
と、呆然と見ていることしかできなかった。

そして、なぜか、日本全体がこういうことになっているのか?と思っていた。
この時 テレビを見ている人がいた、水道の水が出て使っている人がいた、
着替えを持っているひとが居た、布団で寝ている人がいたことなんて 

夢にも思わなかった。
本当に 頭がパニックだった。のだと、今はわかる。



P1000303.jpg

P1000304.jpg



この2枚は門脇、南浜町です。すぐ近くの会社を心配して おじいちゃんが15日に足を運び、撮った写真です。

ここに載せるか迷ったけれど ・・・載せることにした。

これが 現実なんだ。と自分に言い聞かせるために。




今はだいぶ片付き、閑散となった。これも 自衛隊、ボランティアの方々のお陰です。
ついこないだの紅白歌合戦では 長渕もこの土地にある小学校校庭から唄ってた。




でも、こんなにも 悲惨な状態だったんです。

メディアやネットで、もうみんなも分かってるし 散々見てきているだろうけれど
あえて ここに載せます。

これが 現実だったんだと 知ってもらうために。


何人もの人々が 友人達が、ここで家を、生活を、当たり前の日常を、思い出を、

そして 大切な人を奪われてしまったことを

私自身の胸に刻んで、その人たちの分まで懸命に生きるために。







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ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/01/15 03:34 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(4)
どの映像をいつ見ても、
凄まじいとしか形容詞が見つかりません。

実際に経験しなかった私が
どんなに想像しても追いつくことはないし、
だから、どんな言葉を贈っても
それは、上滑りするような気がして…。

音楽家が音楽を
スポーツ選手がスポーツを
ただただ虚しいと、なんて無力なんだと
打ちのめされてしまったのも
そうだよな~としか、言いようがなく…。
[ 2012/01/15 07:14 ] [ 編集 ]
史さんへ
わたしだって、実際には、ここに住んでいた友人たちにかける言葉は見つからないです。
被災者同士の不便さは初めは同じでも、時間がたてば
ここに家があったわけじゃないから、私は家に戻れたけれど 
ほんのちょっとの距離で 
こんなにも差が生じてしまう。

この地域はものすごく思い出のある近くの住宅地、街並みだったけれど さみしい、悲しい、そんな ありふれた感情も
まだ 湧いてこないのです。
まだ、実感がわかないのか、所詮他人事になってはいないか

そんな自分が嫌になってしまいます。

いろいろな方々が、現地へ来てくれて
いろいろな形の応援をしてくれています。
とっても ありがたいことです。が、それすら
まだ、どこか 別な場所で起こっている出来事のように感じます。。。





[ 2012/01/16 01:07 ] [ 編集 ]
>所詮他人事になってはいないか

そっか… そう言うものなんですね…。
自分の感情がどこにあるんだか分からなくなるのは、
多く、共通してるのかもしれないですね。
不謹慎ながら、ちょっと安心してみたりして。^^;;
[ 2012/01/16 20:26 ] [ 編集 ]
史さんへ
う~ん。
こういった 感情の置き場に苦しむ事は
きっと 永遠に無くなる事はないのだろうな…と思います。

私も 被災を言い訳にして 自分の生活に精一杯になりすぎちゃいないか?

そんなふうに 感じるこの頃です。。。
[ 2012/01/17 01:52 ] [ 編集 ]
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