FC2ブログ

ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

5日目-3月15日の話。

この日の朝は、子供たちは なかなか起きてこなかった。
連日の緊張から 少し開放されたのか よく眠れるようになったのか。

私は全く眠れない日々が続いた。
眠れなくて、眠りたくて 気が狂いそうになったけれど 病院なんて行けるわけもなく
自分の家にあった薬は全てヘドロの中へ消えてしまった。
ぐるぐるめまいがして 耳鳴りがして 首が異常に硬直していたのを覚えている。

この日の朝ごはんは 何か作るということはせず 
とりあえず チョコレートや乾パン、お菓子類でごまかした。


昼間になって だんなのお父さんがリュックを背負って おじさんの家を訪ねてきてくれた。
蛇田方面からこちらに来るのに、どこもかしこも冠水や、道路が欠落していて 線路を歩いたり、
だいぶ遠回りをして歩いて来てくれたようだった。

一度、家に行って うちの両親から 私たちがここに避難していることを聞いて 家を教えてもらい
駆けつけてくれたのであった。

義父も無事だった。
義母も、祖母も当日は家に居て、2階に避難し 元気だということがわかった。
もしも義母が仕事の日ならば、湊あたりで渋滞に巻き込まれていたかもしれなかった。


ダンナの実家も 蛇田地区とはいえ 運河の近くだったために
運河の水が溢れてしまい 家は床上十数センチ程度冠水してしまった。

給水場が近いことと 家のプロパンガスが無事だったことで
ペットボトル1.5Lの水と、ご飯をたいて おぎにリを家の両親に置いてきてくれたとのことだった。
本当にありがたかった。

私たちの前では見せなかったけれど 子供達の無事がわかって 泣いて喜んでくれていたそうだ。

私たちは義弟経由で「義父は避難した」とは聞いていたので勝手に安心していたが
私たちの安否情報が届いていなかったので本当に心配していたんだと思う。

義父は私たちの所にもペットボトルの水を1本置いていってくれた。

「なんとかなるから 大丈夫だよ!」と言っても聞かず 貴重なペットボトルごと置いて、
また勢いよく歩いて帰っていった。


そのあとに 今度は同じように 義弟が訪ねてきた。
やはり 同じく 一度家に行って、私たちの所在を聞いて、やってきた。
彼の家はソーラー発電がまだ使えるからと言って 貴重なお米を炊いて タッパーに持ってきてくれた。

義弟とは 津波襲来の時に坂道で会っていたのに 多分、記憶が飛んでいたんだろうな。
子供達の顔を見るなり やはり 彼も「よかった!」と言って泣いた。

この頃になると、みな、歩ける人は歩いて身寄りの安否確認をしていた。
私も 近所の友人宅へ向かい 玄関先にあった
「全員無事に○○に避難しています」という張り紙に安堵して泣いた。

私たちは、知り合い、友人、だれでも
話に「無事だ」と聞いていても やはり 顔を見るとほっとして
会えた人と抱き合って泣いた。



話は またそれるが。


この日も 通信手段をとるべく 私たちは携帯電話とにらめっこした。

すると なぜか 私の携帯だけ 着信が入った。

以下、その時の携帯の送受信履歴から抜粋したものと、携帯に残してあったメモから。


3月15日、はじめて携帯がつながる。千葉に住む兄のメールに
15:44「家族 親戚全員無事です!」のメール返信。

16:12「やったぁ!よかったよ、どこにいたの?食べ物はあるの?」とまたメールが入る。

この間に「新着受信メール」がどんどん入ってきて
センター受信かけたら 11日、地震直後からのメールがあちこちから届いていた。
すべて 安否確認のメール。友達、兄、義姉、義母、青森の友人、鎌倉のおばさん、
いとこちゃん、神奈川の友人。

兄とはCメールが使えた。こっちの方が エラーになりにくかった。
「今、叔父さん宅にいる」「親は家、二階に居る」「食べ物はなんとかなってる」
「寒い、ラジオ、欲しい」
すぐに 充電がなくなりそうになる。
おじさんは 私の携帯を優先して充電してくれた。

夜になり

20:11神奈川のおばさん「避難状況伺い」Eメール受信。
「全員無事に生きていました 親戚関係も無事なり 皆に連絡願う」
必要事項だけやっとの思いで書く。
頭がパニックで携帯の使い方を忘れる。
文字入力、言葉がでてこない。

20:54 鎌倉のおばさん「連絡ありがとう!」兄と連絡ついた、みなに知らせたとの内容メール。
    
いとこちゃん、秋田のおばさん等に私の携帯を使っておじさんが連絡。
やはり なぜか私のケータイだけつながるので、
しばらく おじさんが持っていて 必要なやり取りに使ってもらう。

どうやら この段階で、おじさんが 秋田に住むおばさんに来てもらうことになったらしい。
秋田のおばさんとは、うちのじっちの末の妹、おじさんの双子の姉である。

必要なものをピックアップして メールする。

「炭、(バーベキューセット、紙皿ナド)乾電池各種、懐中電灯、ラジオ、マスク、石油ストーブ」

はじめは こんな感じだったけど、やり取りを重ねるごとに

「女性、男性下着、防寒着、 カセットコンロとボンベ、米、野菜、食料」・・・と贅沢になっていく要望(汗)。

おじさんも、7人(9人)分だし、必死だったと思う。




この日の夜は いただいたご飯に、いとこくんのお弁当のおかずになる予定だった冷凍食品をごちそうになり
みんな ろうそくの明かりに群がって少しおしゃべりをした。

お湯を沸かして コーヒーやココア、思い思いに 暖かい飲み物もごちそうになった。
本当に おじさんの家は天国だった。
暖かい飲み物は、人の心もあったかくしてくれるんだなぁと
しみじみ 感じた。


外部との連絡がとれた。 それは 孤独から開放される、なんとか生きていけるかもしれない と
思わずにはいられない出来事だった。本当に大きな収穫だった。


・・・なんて、書いてるけど この時は こんな風には思えなかったのが本音。
なにも 頭に思い浮かばなかった。

とにかく 「どうしよう。これから、子供たちをとにかく守らなければ」
不思議だけど なんとかそれだけは 頭にあった。



関連記事
スポンサーサイト

ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/02/17 13:23 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。