ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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 ~1週間。みんなの助け。

連絡がとれてからは、
千葉に住む兄が なんとかして 石巻入りするべく 対策を練っていたようでした。

しかし、ラジオでの「放射能」に対する懸念の声が凄まじかった。

そして
関東圏の人は もう東北に入らないほうがいいというデマが流れた。

その話を聞いたおじさんに言われるがまま
私は来ないほうがいいと兄に伝えた。
「大丈夫だよ、女川は大丈夫なんだよ?!」と兄は必死に伝えようとしてくれていた。
結局 私が 強く拒んだため、兄は 一晩 足止めくらった。

さまざまなデマに翻弄されていた 私たち。

放射能汚染はもう 東北全体がやられて 日本から孤立している

なんて、すごいスケールの話から、地元の どこどこの店は強奪にあった、レジ、ATMがやられた、
ガソリン、灯油を抜かれるから 気をつけろ(これは本当だったけど)

もう、どこの橋も決壊して 川を挟んだ街には行けないとか
家をなくした人や、悪いやからが、人がいない家に強盗に入っている、
行き場を失った○国人が、食べ物やお金を求めて徘徊し、抵抗すると刺されるから気をつけろ・・・
女の人は もし、何かあったら無抵抗が命を守るとか・・・

それは それは 恐ろしいことばかり。


結局、兄は 妹のわけわからない情報は無視し、自己判断で17日に石巻にきてくれました。
新幹線も止まった状態。どういった経由で来たのかも 今だによくわからない。

飛行機で山形経由で 宮城県に入り・・・?だった気がする。
仙台からタクシーで来たことだけは
確実に知っていることですが。

この日のメモ参考。
3月17日
    兄 仙台からタクシーに乗っておじさん宅に来た。 
    LDEライト、手回しラジオ、携帯充電器
    ウエッティ、ギャッツビー顔拭き用、500mペットボトル水数本、
    山形で偶然おぎにりを売りに行く人に会い、
    全部買えたからと、買い占めてたくさん持ってきてくれた。

    リュックから 次々と出してくれて ドラえもんみたいだった。

    待たせてあったタクシーに乗って 家に行った。私も一緒にいこうと言われる。
    兄の靴が、真っ白いスニーカーだった。なんて白いんだ。
    この靴で このヘドロだらけの所に来てもらって申し訳ない、と思った。
    わたしの靴が汚くて タクシーの運転手さんに申し訳なかった。
    もはや、汚いのは靴だけじゃないけど。助手席に乗ってナビ。
    メーターがもう、万単位になっていたと思う。
    
    5分で家に着く。
    家の前の水は やっと ほとんど引けていた。

16日の写真↓
P1000352.jpg


 ↓窓がわのカーテンに跡が。赤い矢印の所まで 浸水した。
だんだん、泥が浮き出てきはじめている
P1000329.jpg
    
    タクシーはそのまま 家の前で待っていてもらった。

    家に入ると、ヘドロの臭いが鼻をつく。

    久しぶりに家族4人だけになった。兄が来てくれて 興奮したのか
    無我夢中で狂った様に兄に携帯がつながらないと話す母。
    「秋田のおばさんと連絡とれたよ」と話すと、なぜ 私の携帯だけがが使えるのかと責められる。
    もう わけがわからない。
    父が外に出てるその間にどこかに自分だけ避難する準備をしているようだ、
    そんなことまで言った。
    母を見て、これは もう 一緒に居ないとダメだと思った。


↓この写真は23日のものだが
一階は この状態のまま、震災後一週間目もこんな状態だった。

P1000335.jpg

P1000334.jpg

    「不衛生で病気になってしまうよ」と    
    必死に説得するも、パニックな様子。母娘、二人で抱き合って泣いた。
    「今はみんなが被災者なんだよ、家族一緒にいなきゃだめだよ!」
    母をぎゅーっと強く抱きしめた。
    兄が自分の携帯から、母の姉に電話してくれて会話が出来た。
    少し それで落ち着いたようだった。
    兄が持ってきた水、おぎにりを母と一緒に食べた。
    まだ温かく おいしくて涙が出た。
    それでも母は 私の手が ひび割れして赤くなっているのを心配していた。
    

    兄、家の中の写真をいっぱい撮っていた。皆に口で説明できそうもないから、と。
    タクシーにまた乗って おじさんの家に私を送ってくれた。
    兄はそのまま おぎにりなどをたくさん持って仙台に向かった。
    仙台も大変だと思う。みな無事だろうか。義姉さん、心配だろうな。
   (義姉の実家が仙台にある。沿岸部ではないがライフライン全滅)


    午後から じっち、おじさん宅に来る。
    「おれたちも明日、こっちにきていいか?」と頼みにきた。おじさんは「もちろん」と返事。
    よかった、みんな 一緒に居れる。
 
おばあちゃんは、本当に人付き合いが苦手で、気を使う性格で
あまり 外との交流をもたないタイプだったので
いくら義弟とはいえ おじさんの家にお世話になるのが申し訳ない気持ち、
気を使うから行きたくないという気持ちがあったのだと思う。
そこの心を溶かすことが まわりで一番心配したことだったが
兄が来てくれたことや、私と話したこと、秋田のおばさんが来てくれることがきっかけになった。
本人は「食糧がそこをついた」と言っていたけれど。それも事実だけどね。
    


3月18日 秋田のおばさん、おじさんが来てくれた日。午前中に 両親のぶんの部屋をスタンバイした。
    おじさんがひとつはソファーをベットにしてくれた。ひとつは自分の分をあけてくれた。
    おじさんはおばさんのベットに布団を移し、おじさんの寝室も移動した。
    そして 車で両親を迎えに行ってくれた。
    天気は晴れていた。
    両親の荷物と、布団一式をはじめに運んだ。
    おばあちゃんは つとめて明るくしていた。
    子供たちと再開して お互いに胸をなでおろした様子だった。
    
    秋田のおばさん達がお昼頃到着する。
    あのコンパクトカーから どれだけ出てくるの?!ってくらい 
    たくさんの支援物資を積んできてくれた。
    石油ストーブに 手回し充電式ラジオ、乾電池 防寒着 女性男性下着たくさん、
    非常用毛布、カセットコンロ、ボンベ、エアーポット!
    コメ30kgにみそ、野菜やそのほか食材の数々。


秋田のおばさんは きっと、連絡のとれた翌日から 買い物に走り回ってくれたにちがいない。
旦那さんと二人で たくさんの支援物資をコンパクトカーに押し込んではるばる石巻まで来てくれた。

来てくれたとき、泣いていた。おばあちゃんとも泣きながら抱き合ってた。
みんな、よく 一緒に居てくれた、よかったよかった!と私や子供たちの頭をなでて言った。
「避難所さ ひとりひとり、探しまわらればならねど思った。どうもね、みんな一緒でまず、いがった!」

秋田も停電があったらしいが、その後回復してからTV映像を見て 石巻と連絡がつかない状況に、
覚悟したと言っていた。

ちょうど、連絡がとれてから 秋田のおばさんの娘さんが、ネットでじっちの名前が、
安否確認?捜索願?がでていたのを見つけてくれて、無事に生きていて、
避難していることを 伝えてくれたそうだ。(そんなサイト、あったんだね)
会社の東京の本社の人だったらしい。

なんだか、すごいことになってんだな・・・って実感がわいた。

お昼に合わせて おばさん達が持ってきてくれた 食材とカセットコンロで
大きな鍋になめこ汁を作った。おばあちゃんと一緒に作った。それがまた嬉しかった。

おばさんが たくさんおぎにりを握ってきてくれたので それと
途中のインターでGETしたパンなども食べた。つけものも、切ってタッパーに入れてきてくれた。

発砲スチロールでできた 使い捨てどんぶりに 11人分 味噌汁をよそって みんなで食べた。

あったかかった。本当にあったかかった。
はじめて まともにごはんを食べた気がした。
人間は、こういうもの 食べなきゃだめなんだなぁって思った。

今までも おじさんの家でも何かとごちそうにはなっていたけれど
本当は 食べたいくらい 食べていなかった。
飲み物も なるべく控えていた。
あまり トイレに行きたくなかったこと、気を張っていたせいか おなかが空かなかったこと、
先が見えないので 食材を少しずつしか出さなかったので
なるべくおじさんたち、子供たち優先にしたこと。


このときは 本当に 自分の本能のまま 食べた。
でも、みんなもそんな感じだった。いつも以上にたくさん食べた。

うまかった。。。

家族みんなが揃ったことも 大きな大きな 安心に変わった。


みんなで おしゃべりしながらお昼を食べて お茶を飲んで
あっという間に15時ころになった。

おばさん達は暗くならないうちにと、すぐ 帰路についた。
みんなで大きく手を振って 別れた。


ありがとう、秋田のおばちゃん、おじちゃん。
それから お兄ちゃん。
そして、おじさん、いとこくん。

ありがとう。





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ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/02/22 06:00 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(6)
誤った情報が流れまくって、
どれをどう信じていいのか
テレビを見てさえも分からなかったよ。
ツイッターで助かった部分もあれば、
人の善意を踏みつけにした愉快犯みたいのもいたみたいだし。
情報が極端に少ない中、パニックに陥ったのは、
仕方のないことだったと思う…。
まだまだ日常には遠いけれど、
1mmくらいずつ日常に戻っていく様子が分かります。
こるくさんの記事。
[ 2012/02/22 18:04 ] [ 編集 ]
史さんんへ
そうなんですねぇ・・。
様々な情報が錯綜した、混乱したのはこちらだけじゃなかったのか。
あるいみ、それも恐いですけども。。

>1mmずつ日常にもどっていく・・・そうか。
私たち、日常に戻そうと必死だったんだよね。
非日常のなかで 何をしていたのかって最近になって
漠然と思い出すんです。
このころ
私たちが過ごさなければいけない「日常」、
ぜーんぶ頭からすっ飛んじゃってました。

[ 2012/02/23 15:39 ] [ 編集 ]
管理人のみ閲覧できます
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[ 2012/02/24 16:30 ] [ 編集 ]
秘密のコメントさんへ
応援、ありがとうございます。
それだけでも嬉しいのです…!
[ 2012/02/25 10:00 ] [ 編集 ]
家族一緒ってほんと大切だね。こるくさんの記事を読んでいると、TVや新聞では知り得なかった細やかな情報や当事者の心の微妙な変化を知ることができます。あたたかな食べ物を口にした時、それをおなかいっぱい食べることができた時の幸福感、家族が顔を会わせられた時の安ど感、伝わってきます。
こるくさん、ほんとご家族が無事でよかったですね。私も、こるくさんの名前、ネットや新聞で探しました。史さんにこるくさんの無事を教えてもらい、こうしてブログを目にすることができてほんとによかった。震災の記録記事、続けてね
[ 2012/02/25 12:01 ] [ 編集 ]
京女。さんへ
コメント、いっぱいありがとうございます♥
>あたたかな食べ物を口にした時、それをおなかいっぱい食べることができた時の幸福感、家族が顔を会わせられた時の安ど感、・・・。

そうなんだよね。
京女さんに言われて「そういうことなんだ」って
気づかされます。
本当に無我夢中で 何がなんだかわからなく過ごしてて この時のことをありのまま書いていますが、
もうすぐ一年・・・
だんだんと 記憶が薄れていってしまうのではないかと思うこともあります。
それって、いいことかもしれないけれど
逆に 恐いことでもあります。
だから なるべく
自分のためにも 記録、がんばりますね。


京女。さん、史さん ありがとう!
心から 生きててよかった。




[ 2012/02/25 17:17 ] [ 編集 ]
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