ごきげんな こるく NO/2

 管理人こるくがゴキゲンになることの日記。 震災の体験の記録も書き始めました。

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共同生活。片付けの日々、そして この先の決断。

おじさんの家に厄介になって 両親も合流して
9人での共同生活。

おじさんの家に たまたま女手がなかったことは 私や母にとっては
同じく気を使うにしても また違ったと思う。

こんな言い方はどうかと思うが、
もしも おばさんも居て いとこちゃんも居て・・・となれば
女同士 心強いというメリットもあったかもしれないが
そこの家主の女性人には 相当気を使って、こんなにも長くは居られなかったと思う。

私たちはほとんど自分の家の様に 台所をお借りして、洗濯もできるようになってからは
ある程度は自由にさせてもらっていた。

けれど、やはり よそ様の御宅なわけで。


自宅のヘドロの片付けに行ってきて おじさんの家に帰ってくると、
あまりにもギャップがあって がっくりきてしまうことも多かった。


P1000351.jpg


P1000336.jpg


自宅の片付けは、おじさんやいとこくんも 手伝ってくれた。

嫌な顔ひとつせずに やってくれた。

重い畳も運んでくれた。

P1000354.jpg


けれども さすがに ヘドロまみれになった物を 泥を落としても
綺麗で新しいおじさんの家に持ち帰ることは かなりの抵抗があった。
おじさんは きれい好きで 臭いも気にする人だったし。

水が出るようになってから おじさんは時々自分たちのものは
自分で洗濯をしたりしていたので
へたに 洗濯機を汚してしまったら 大変だから
そういったことで 気を使ってしまい 
もしかしたら 捨てなくてすんだ服なども 洗濯のジレンマで捨ててしまったかもしれない。

お姉ちゃんたちが10日の夜まで使っていた布団が入った押入れの中。
上段引き出しケースの引き出しにも たっぷりと水が。
この中のものも、洗濯したかった。
P1000353.jpg


コインランドリーは、近所は全て被災しており 全滅。
蛇田地区のやっている所は行列ができていた。

洗濯物だけじゃなかった。


やはり、生活を営むということは
それぞれに 家事を一つとっても ポリシーや やり方というのがある。
食事だって それぞれの考え方や好みがある。
家族であっても プライバシーやライフスタイルは守りたい。
普通は家主さんに合わせるべきなんだろうけれど
我が家の場合は 人数的にこちらが多かったことや
子供達がいることで 逆に おじさんたちに気を使ってもらった面が多かったと思う。

でも、お互いに それはそれで
疲れが出てくるのは 時間の問題でありました。

うちのお父さんにとっては 妻のおじさんの家で気を使い
家族5人でひと部屋ということで 娘たちの着替えなど 様々な面で肩身の狭い思いをしたと思います。
おじさんだって 仕事が再開してからは 虫の居所の悪い時もあったし
いとこくんも、仙台の大学に進学が決まっていたけど
電車が不通になってしまい、急遽 アパートを借りて一人暮らしすることになり
入学準備も 本当に大変そうな状況で
私たちが家にウロウロしていれば
うっとうしい時もあったんだろうなと思います。

いつまでも、ここにいるわけにはいかない・・・。
両親たちはまだしも、私たちは、早くなんとかしなければ。

そんな思いの中、毎日家の片付けに行った。

いろいろ 捨ててしまった。

私が結婚したときに両親に買ってもらった和ダンスやドレッサー。
母から譲り受けた愛用していたミシン。
母がお姉ちゃんたちのためにと買ってくれた大切な電子ピアノ。
新婚時代に買ったTV台。ペンキを塗ってリメイクした。
初めてブログを始めた、大好きな音楽の入ったパソコン。
ひとつ ひとつ 思い出の詰まったものたち。
P1000340.jpg


でも、自分だけの作業じゃないから 細かく分別していても 
マジックペンなどもなかったし
一日自分が行けない日があったりすると
全部 ゴミだと思われて 家の前のゴミ置き場の方に持って行かれてしまったりして
片付けも、思うようにいかなかった。
自分で「捨てる」と決めて置いたものでも、その日の夜には「やっぱり捨てたくない」と思い返し
次の日に ゴミ袋をあさる・・・そんなこともした。結局は見つけられず
もう、何を探していたのかもわからなくなった。
P1000341.jpg



片付けだけに 集中できるわけでもなかった。

とにかく 日々の家事もある。9人分の洗濯物、食事、掃除、買い物。
おじさんには 迷惑かけたくない。

食事作りはお姉ちゃんたちも良く手伝ってくれた。

だけど

自宅の片付けに関しては ヘドロがあまりにも凄かった時は気持ち悪く、
具合を悪くしてしまって 手伝うどころではなく、寝込んでしまっていた。
P1000357.jpg



私は、片付けが、もう ほとんど 投げやりになってきていた。

それは


ある決断からだった。

父親が、

「もう、この家には住めない。片付けるだけ片付けたら 秋田に帰る」
「仕事も退職する」
と、言い出したのだ。

まだまだ 先の見えない状況。
義援金だって どうなるのかなんて その時は全く頭になかったし
とにかく 周りの家 全てが同じような状況で
知り合いに大工さんがいるわけでもなく、例え、大工さんが居ても 材料なんてあるはずないと思っていた。
一階が、生活配線がある一階がズタボロになってしまった我が家は
いくらお金がかかるか分からない。
いくらお金をかけたとしても、この時は
なおせるなんて 思いもしなかったのだ。

両親が 秋田の実家に帰るとなると、
私たちは?

他にアパートや貸家を借りようとも思える余裕も知恵もなく
お父さんは
「実家に行こう」と言った。

私は 正直、
ここを 直して欲しい。 また やり直そうよといいたかった。
今まで9年間も 一緒に暮らして 世話になってきた両親との生活。

同居する前は
私たち5人家族で実家の近所の貸家に住んでいた。
でも、私が るーくんが2歳になった頃に 体調を崩し 倒れた。

お姉ちゃんたちもまだ小学生と、保育所だった。

仕事が忙しかったこと、子供達のこと、家のこと 全て一人で抱えてしまっていた
当時の私。
お金欲しさに 夜も 子供達が寝てから バイトを入れていた。
結局は無理がたたり 一番最悪なパターンとなってしまった。
まだ、手の掛かる 子供達を置いて 倒れてしまい、

そして 何日も眠り 目を覚ました時  私は実家の布団に寝ていた。

それから 実家の両親は 私たち家族を助けるために迎え入れる決断をし、
義父、母とも話し合って
実家にお世話になることになった。

そうして 私たち家族の絆もできて 私の病気もようやく 光も見えつつあったころ

津波が我が家を襲った。



お父さんは、もともと長男なわけで
わたしは 嫁であって
お父さんの実家に暮らすことは はっきり言って 最初から確定していたことだった。
本当はそれが筋の通ったことであるわけで。
でも、
わたしの病気の性質上、それは厳しかった。
祖母が健在なので 義父母は、祖母がいるうちは 同居は無理だななんても言っていた。

けれど 今回は震災で そんなことは言ってられない。

私が 震災パニックで 震災前よりも 家事はこなすし、片付けにも通うし、
症状が 時々の過呼吸と 不眠 程度だったので
お父さんは「これをきっかけに 実家に入る」と言ってきかなかった。

私が不安をあらわにしても 「大丈夫だから」としか言わなかった。
義父も義母も 病気への理解はしているから、と。
子供達の学校への送迎も 俺がやると言って、私へ負担はかけさせないから、と。

もうその頃にはどこのアパートも貸家も いっぱいだった。
仮設住宅に申し込むという 考えも 彼にはなかった。

きっと、頭のどこかで 数年間 帰りたいと思っていたんだろうな・・・
私の病気があるから、我慢してきたのだと つくづく思った。


私たち 7人家族はこれから バラバラに住むんだ。
私は 嫁として 実家に行かなければならないんだ。

もう、ここには 住めないんだ。
もう、この生活は終わりなんだ。

そして わたしの実家は無くなるのだ。


そう思ったら なんにも 片付ける気になれなかった。

全部 終わり、

全部 捨てなきゃ。

そんな錯覚さえ おこしていた。

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ジャンル : その他
テーマ : 東北地方太平洋沖地震~The 2011 off the Pacific coa~

[ 2012/03/09 02:47 ] 震災の記録 | TB(0) | CM(2)
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
[ 2012/03/10 15:34 ] [ 編集 ]
秘密のコメントさんへ
嬉しいです。

素直に
読んでくれてありがとうございます。

本当はね
私はまたまだ 頑張ってないんだよ。

だんだん、震災の記事でさえも
愚痴ブログになりそうなんだけどね(汗)

でも、 ありがとう…!
[ 2012/03/10 22:36 ] [ 編集 ]
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